2003年8月20日
Text by ”たけ”
幻の魚・イトウ
「幻の魚・イトウ」、この魚に最初に「幻」という文字を冠したのは、かの小説家「開高健」氏であると聞いたことがある。その著書「私の釣魚大全」には、「釧根原野で《幻の魚》を二匹釣ること」という章が収められているが、この話がかかれたのが1968年であるから、当時から既に幻であったのだろう。
ご存じのようにイトウはその個体数が年々減少する一途にあり、現在は環境省のレッドリストで絶滅危惧TB類に指定され、いくつかの河川湖沼では既に絶滅したところもある。イトウは、今まさに「幻」となろうとしているのかもしれない。
ではなぜにイトウは、絶滅の危機に瀕するまでに激減し、幻とまで呼ばれるようになってしまったのだろうか。
イトウの減少の原因としてその最たるものは、やはり生息環境の悪化だろう。河川改修による流路の直線化、単純化などがこれにあたる。これらはイトウの付き場を破壊し、餌となる小魚の隠れ場を奪うばかりか、同時に河畔林を喪失することとなり、イトウのみならず、河川生態系そのものの多様性などにも大きく影響するだろう。また釣り師としてもそのような川では、釣りをする悦びも感じられまい。
中でも最も憂慮されるべき問題は、ダム等の河川構造物の建設による生息域の分断化である。イトウはその長い一生にわたって、大きな川の上流から下流までそのほとんど全てを必要としている。産卵はイワナやヤマメが棲むような、上流の小規模な河川(支流域上流部)で行われ、成長と共に生息場所を下流に移し、中には降海する個体もある。産卵のため上流域に溯上する親魚が、産卵場所に到達できず正常な産卵が行われないのならば、イトウが減少するという事はあまりにも当然の事である。
砂防ダム等には魚道の設置されているものを度々見かけるが、多くの場合は溯上効果が低いか、まったく機能していない。また、構造的にイトウのような大きな魚体を持つ魚が利用出来うるものであるのかにも大きな疑問が残る。
このほか森林伐採や道路工事等による土砂の流出は、イトウに限らずサケ科魚類の卵の正常な発育・孵化を妨げる。
このような自然環境の荒廃は、何もイトウの生息地に限った話ではなく、こうしている今も全国で自然環境が破壊されつつある。が、近年のごく一部の幸福な例をみると、これらの問題を憂慮する市民団体等の働きかけによって、こうした自然破壊をともなう環境開発が中止された例もある。例えばイトウの生息域である道東・別寒辺牛川の砂防ダム計画・建設の凍結などは記憶に新しいところだろう。
イトウ減少の主たる原因として、生息環境の破壊があることは既に述べたとおりだが、ではその生息環境の保全・復元を図ればイトウは護られるのだろうか。
我が国では長いこと「サケ・マス増殖事業」を行い、その努力の甲斐あってシロザケなどは驚異的な回帰率を得るまでになったが、その背景にあるのは徹底されたサケ至上主義であり、そこでのイトウやアメマスは害魚として扱われ、かつては積極的な駆除を実施してきた地域もあるという。
またイトウはその希少性や大型になることなどの貴重さゆえ、剥製が高額で取引されているという話もある。そのためこれらを目的に釣ったイトウをキープしたり、中には産卵のため溯上した個体を網で掬ったり、銛でつく者までいるという。
このような乱獲と言える行為が、イトウの個体数減少に関わってきたことも、ほぼ間違いないだろう。
またそうした乱獲は、キャッチ・アンド・リリース(以下、C&R)を実践している釣り師らから、しばしば非難の対象となっているが、イトウ釣りという行為自体には問題はないのだろうか。
イトウといえば1メートル以上の大型に成長することや「幻」と称されるような神秘性もあり、釣りの対象魚として非常に人気が高く、そうした大型の個体はルアー、フライを中心とした釣り師らの垂涎の的ともなっている。この魚の釣りシーズンともなれば、有名ポイントに多くの釣り師が押し寄せ、或る者は巨大な獲物に歓喜の凱歌をあげ、また或る者は悔し涙で再びあいまみえんことを誓い釣り場を後にする。雑誌やインターネットなどのあらゆるメディアでも、しばしばこの魚の釣りが取り上げられ、釣り師に抱えられた大物の写真に誰もが溜め息を漏らす。
こうして釣り上げられたイトウは、多くの場合がC&Rされており、釣り師の間でもそれが暗黙のルールとなっているようである。C&Rを実践している多くの釣り師らは、C&Rによってイトウが保護できると考えている感がある。が、果たしてどうなのであろうか。
近年はC&Rを科学的に調査する研究者もあるが、そこでのいくつかのデータが示すよう、その手法に誤りがあれば高い確率でリリースされた魚は絶命する。だが、そうしたデータの多くがイワナやニジマスを対象としたものであり、イトウに関するC&Rとその後の生残率との相関性については、いまだに明らかにされていないのが実状だ。
さて釣りに関して最も憂慮すべきは、産卵期の釣りだろう。一般にイトウ釣りのベストシーズンとされる4〜5月は産卵期直後で著しく体力を消失している。そうした時期に釣られたイトウは、たとえ正しくリリースされたとしても、その生残率は著しく低下するのではないだろうか。また産卵期前であれば、イトウは非常に神経質な魚であるため、リリース後に正常な繁殖行動をとらない可能性がきわめて高いという。人間でも臨月の妊婦や産後間もない女性に縄を括り付け、引きずり回せば、どのような結果になるかを考えればよくわかることだろう。
また調査によると、繁殖行動に参加できるイトウの親魚の個体数は推定1000個体に満たないとの報告もある。そのうちから更に正常な産卵を阻害される場合があっては、イトウの増殖は望めるものではない。
そうして考えるとたとえC&Rを実践していても、産卵期前後の釣りがイトウに深刻なダメージを与えている可能性は否めない。
さてここまでご覧いただいて、イトウが如何に危機的な状況にあるかがお解りいただけただろうか。この他にもまだ憂慮すべき問題はあるが、概ねこうしたところからイトウは、「幻」と呼ばれるほどの状況に陥ってしまったのだろう。今後、イトウを取り巻く状況がこれ以上悪化しないよう努めることも重要だが、現状維持ではイトウの個体数の減少は避けられまい。
近年、イトウの減少、絶滅を憂慮する市民団体等が設立され、様々な活動が見られる。これは非常に歓迎すべき事だろう。だがそれを横目で見ているだけでなく、その傍らで私たち一人一人に何が出来るのかを模索し、行動することこそが、今、多少の違いこそあれイトウに関わる全ての者に求められるべきだと思う。そうでなければイトウは本当の意味で「幻」となり、私たちはみすみすイトウを絶滅させた世代として、歴史に汚名を刻む事になりかねない。
最後にイトウが絶滅危惧TB類に指定されているレッドリストの評価基準を、付録として記しておくので参考にしていただきたい。イトウの深刻な状況をよりリアルに感じていただけるだろう。
付録:絶滅危惧生物に関する評価基準
日本版レッドリストカテゴリ 絶滅危惧TA類 絶滅危惧TB類 絶滅危惧U類 IUCN新カテゴリ CR EN VU 基
準A 急激な減少 10年または3世代で
20%未満に減少10年または3世代で
50%未満に減少10年または3世代で
80%未満に減少B 狭い分布域
(寸断、連続的減少、
大きな変動あり)分布域が100平方q
未満または生息地が
10平方q未満分布域が5,000平方q
未満または生息地が
500平方q未満分布域が2万平方q
未満または生息地が
2,000平方q未満C 小集団
(連続的減少あり)成熟個体250個体未満 成熟個体2500個体未満 成熟個体1万個体未満 D1 特に小集団 成熟個体50個体未満 成熟個体250個体未満 成熟個体1,000個体未満 D2 特に狭い分布域 − − 100平方q、
または5カ所未満E 絶滅確立 10年または3世代後に
50%以上の確立で絶滅
の可能性あり20年または5世代後に
20%以上の確立で絶滅
の可能性あり100年間に
10%以上の確立で絶滅
の可能性あり