惟 光 の 萬葉万華鏡 G.W.版
万葉よめる仮名?
5月5日出題 |
茜草指 武良前野逝 標野行 野守者不見哉 君之袖布流 |
巻1/20(額田王) |
5月5日出題 | 紫草能 尓保敝類妹乎 尓苦久有者 人嬬故尓 吾戀目八方 | 巻1/21(皇太子) |
訓読:あかねさす むらさきのゆき しめのゆき のもりはみずや きみがそでふる むらさきの にほへるいもを にくくあらば ひとづまゆゑに われこひめやも
口訳:紫野を行って 禁野を行って 番人は見ないとでもいうの? あなたが袖を振っているのを
紫の花のように 美しく咲く恋人を 悪く思うのなら 人妻なんだからさ ぼくが恋するはずないじゃないか
★額田王シリーズ最終回は、今日の日にちなんで、有名なこの二首の唱和歌。この歌にロマンを感じて万葉ファンになった人もいるのではないでしょうか? 今回は、テキストをそのまま抜き出しましょう。
天皇遊猟蒲生野時額田王作歌
あかねさす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る
皇太子答御歌 [明日香宮御宇天皇謚曰天武天皇]
紫のにほへる妹を憎くあらば人妻故に我れ恋ひめやも
紀曰 天皇七年丁卯夏五月五日縦猟於蒲生野 于時大皇弟諸王内臣及群臣
皆悉従焉
作歌状況を書いた題詞には、「天皇遊猟蒲生野時額田王作歌」とあります。同じく左注には「紀曰 天皇七年丁卯夏五月五日縦猟於蒲生野 于時大皇弟諸王内臣及群臣 皆悉従焉」とあります。ここの「天皇」というのは天智天皇のことです。天智天皇が琵琶湖東岸の蒲生野で狩をしました。額田王は天皇たちが狩をする禁野(しめの=宮廷直轄の狩場や薬草園)に来ています。彼女に手を振る男性がいます。天智天皇の弟、大海人皇子です。「袖を振る」というのは求愛行動だと説明されています。そう、大海人皇子は額田王を愛していたのです。でも額田王はこのとき天智天皇の妻でした。額田王という絶世の美女をめぐって天智天皇と大海人皇子は対立を深めていきます。それはやがて壬申の乱という内戦をひきおこすのでした……なんていう話はありえません。だいたい壬申の乱というのは……
恒例、歴史クイズ〜。
Q:壬申の乱の双方のリーダーの名前と二人の関係を説明しなさい。(今回も答えは反転だよ)
天智天皇の皇子、大友皇子と天智天皇の弟、大海人皇子との戦い。
と、いうわけで天智天皇と大海人皇子との戦いではないわけだし、また額田王も天智天皇の妻であったという証拠はありません。ただ、この歌に額田王が「人妻」といわれていること、巻4に天智天皇の妻と思わせるような歌があることから、そんな気がしているだけです。資料的に額田王の男性関係を求めると、なんのことはない、天武天皇、つまり大海人皇子の妻でした。二人の間には十市皇女という子供が生まれました。この子は天智天皇の皇子、壬申の乱の一方の首魁、※※皇子の妻になっていて子供もいました。この皇子はこの歌がかわされた数年後には壬申の乱で敗れ、首をはねられますから(余談ですが、この皇子の墓と伝えるものが伊勢原市、大山の麓にあります)、このとき、額田王はもう孫がいた年齢なんですね。と、いっても数えの14で結婚するような時代ですからまだ30過ぎから40代くらいでしょうか。それでも平均年齢が30未満という時代。現代に置き換えれば、若くても50代から60代という感覚ですね。〈熟女〉であります。この歌は、現実的にはけして初々しい男女がかわした歌ではありません。
それでも、この二首の歌に宿る若々しさは否定できません。「野守は見ずや」というイケナイことをしているような不安感と、同時におこる冒険心。また「人妻ゆゑに吾れ恋ひめやも」という社会の規制を突き破ろうかという直情的恋情。そこには「紫のにほへる妹」という可憐な少女の姿が動機としてあります(紫は白い可憐な花です)。ここにあるのは、文学です。
恋に年齢はありません。たしかに恋する者を外から眺める者には、たとえば60代の男女の恋は60代の男女の恋に、30代の男女の恋は30代の男女の恋に、見えます。でも恋する者の心には年齢はありません。いつだって恋は初々しいものです(まあ、邪念に歪んだ恋というものもありますが、これはここでいう恋とはちがって欲望というヤツでしょう)。その心が歌という形にあらわれるとき、そこには若々しい男女の姿がうかびあがります。それが文学の力です。そこにうかびあがった姿は虚構かもしれません。しかし、その虚構の中に人間の真実があるのです。
さて、この歌がいつ詠まれたかに目をむけてみましょう。題詞と左注によれば、天智天皇七年の5月5日の狩の日に詠まれました。
Q:天智天皇七年(斉明天皇崩御直後から数えます)とは、どんな年でしょうか?(↓反転させてね)
中大兄皇子が天皇の職務代行(「称制」といいます)期間を終えて近江大津宮に遷都して即位をした年。
5月5日は、1月1日、3月3日、7月7日、9月9日と並んで、のちに「節句」として定着する日の一つです。もともと5月のはじめの午の日のマツリでしたが(だから「端午」というのです)、いつしか5日になりました。この日の風習については5月1日出題の歌のところで少し触れました。もともと中国の風習が伝わったものらしいのですが、推古天皇の時代に宮廷行事として組み込まれると、男は鹿を狩りその若角(鹿茸=ろくじょう)を取り(鹿茸は薬になる)、女は薬草園で薬草を摘む行事となったようです。狩りがすむと、鹿茸や摘まれた薬草を酒とともに飲み、無病息災不老長寿を祈るのでした。
天智天皇七年5月5日の狩猟は、天智天皇が即位して初めてと言っていい、大きな宮廷行事だったのです。そのような中で披露されたのが、この歌です。狩猟のあとの宴において、彼女は今日の出来事を歌につくりあげてゆきます。「あかねさす紫野行き、標野行き…」。そこにいるだれもが経験したであろう景色の叙述。そこから一転、わが身におこった大事件「君が袖振る=ナンパされちゃったの」へと展開する歌は、もはや「熟田津に〜」の歌(8番歌)に見られるような、社会を包み込む要素はもっていません。むしろ個人の上におこった出来事を描写することで、かえってこの日の出来事を印象づけてゆきます。
するとそこに、歌が返されます。しかし、それは夫からのものでした。ある意味、孫のいる老いた女性がナンパされたといって喜ぶ歌にたいして、劣らぬ容色と恋情を称える歌をダンナがつけることはギャグかもしれません。それでも宴に列座していた者たちには歌の作り出す世界と自分たちが経験した世界とが錯綜し、さらにギャグをうけいれることで、新天皇の時代の到来を満喫することができたのではないでしょうか。そしてもう一つ。「皇太子」とは大友皇子という説も出されましたが(梶川信行)、『万葉集』に「天武天皇」とする注記(後に補われたものかもしれない)があるのを尊重したいと思います。皇太子大海人皇子は、そういうギャグを生み出す言語感覚に長けていたのかもしれません。
この歌に、歴史的現実的事実はありません。しかし、その時代に生きた人々の息吹があり、また人間の真実が描かれています。それゆえ、人々の気持ちをひきつけているのでしょう。
5月4日出題 | 金野乃 美草苅葺 屋杼礼里之 兎道乃宮子能 借五百磯所念 | 巻1/7(額田王) |
訓読:あきののに みくさかりふき やどれりし うぢのみやこの かりいほしおもほゆ
口訳:秋の野で 草を刈って葺いて宿っていた 宇治の宮処の あの仮庵が思い出される…
●「金野」を「秋の野」と訓むのは困難です。これには中国の五行思想の知識が必要です。すなわち、木・火・土・金・水という物質を構成する五大元素のことです。これらの元素の発する気の作用に陰陽の気が加わって、森羅万象は動いているのです。四季という時間も、これらの気の支配をうけます。春は「木」、夏は「火」、秋は「金」、冬は「水」、そして季節の変わり目が「土」。ちなみに「土」の気が作用する時期を「土用」といいます。この知識があれば、「金」を「秋」と訓む理由がわかりますね。
●「所念」は漢文的用法で、「所」は下の動作を受身や自発にします。そこで「念=オモフ」に上代特有の自発の助動詞「ゆ」を接続して「おもほゆ」となります。この語は平安時代になると「おぼゆ」という動詞になってしまいます。
★額田王シリーズ第2弾! 彼女のデビュー作です。詠まれた時代は舒明天皇の奥さんが最初に天皇だったころ。
ハイ、歴史クイズ〜
Q1:舒明天皇の奥さんは何天皇でしたか?はじめに即位したほうの名を答えてください。(答えはすぐ下に反転して書いてあるよ)
皇極天皇
Q2:彼女が退位をしたのは、宮中でおきたある事件がきっかけです。どんな事件だったでしょう?(同じく反転)
政権の中心だった蘇我入鹿を、中大兄皇子が中臣鎌足や蘇我倉山田石川麻呂らと結託して暗殺したこと(乙巳の変)
この歌について『万葉集』は、ある書物によると天皇の歌だというと歌の後に注記しています(このような注記を「左注(さちゅう)」と言います)。天皇の歌といわれれば、そうも見えるようなこの歌。そこから額田王は天皇に代わって歌を詠んだのだ、という「代作歌人」説が登場します。そういわれれば昨日の日本海軍出航の歌も、天皇が歌うのにふさわしい内容と勢いでしたね。でも、もし本当に天皇の代作をするのだとしても、個人的感情を個人的に詠むのではありません。「熟田津に〜」の歌が戦士を前に歌い上げられるように(現実に歌われたかはともかく、歌のリスナーとして想定されています)、その歌を共有する場がそこにはあります。その場にいる人々の代表的感動を歌に作り上げ、天皇の名の下に発表された、ということなのでしょう。それは天皇を中心として朝臣が作り上げる儀礼や宴席といった場での歌を専門的専属的に作り上げる「宮廷歌人」と呼ぶべきような人を生み出します。
さて、この歌。なぜ宇治の宮処が思い出されるのか、何の理由も示されていません。推測する資料もありません。でも逆にそれだからこそ、この歌の詠まれたときのリスナーが、その理由を作者と共有していたのではないでしょうか。きっと旅にでて宿った場所で、かつて宇治で旅の宿りをした時のことが思い出されたのでしょう。ひょっとするとそれは天皇の亡くなった旦那さん、舒明天皇のことだったのかもしれませんね。
5月3日出題 | 熟田津尓 舟乗世武登 月待者 潮毛可奈比沼 今者許藝乞菜 | 巻1/8(額田王) |
訓読:にぎたづに ふなのりせむと つきまてば しほもかなひぬ いまはこぎいでな
口訳:熟田津港で 乗船しようと月を待つと 潮加減がよくなった 今こそ漕ぎ出そうぞ!
●「熟田津」はよめなくてもかまいません。『日本書紀』に「熟田津、これはニギタヅと訓むのです」と注がついているので、ニギタヅと訓みます。愛媛県松山市近辺にある港のことです。「尓」はもう訓めるように。
●「舟乗」は訓字。「世→せ」「武→む」「登→と」も訓めてほしいな。
●「月待者」の「者」は昨日も見たよね。
●「潮毛可奈比沼」も「毛→も」「奈→な」「比→ひ」は字母そのまま。「可→か」はおなじみ、「沼→ぬ」も原書講読で出てきたと思う。
●「許」はキョではなくコと訓みます。「藝」はギ。「乞菜」をコギイデナと訓むのはちょっと理屈がいるみたい。たしか、契沖(けいちゅう=江戸中期の国文学者。いや、国学者かな? 万葉研究に近代的な実証の方法をもちこんだ、いわば近代万葉研究の父)がいろいろ言ってたような…。連休で図書館にいけないので、アイマイで悪いけど、その理屈については、またの機会に。
★昨日、額田王が登場したので、今日から額田王シリーズへうつりましょう。この歌は有名だから知っている人も多いのでは? 彼女の比較的若い頃…もう結婚して子供がいたけど…の作品です。
突然歴史クイズ〜!
次の言葉を説明してください(答は反転して書き込んであります)。
Q:白村江の戦い…661年、唐と手を結んだ新羅が百済に侵攻した。百済は救援を日本に求め、斉明天皇は軍を率いて九州に出陣。商戦半島に出兵した。しかし662年、天皇は陣中で没してしまう。翌663年、日本軍は唐・新羅連合軍と白村江で戦うが敗る。この戦いが白村江の戦いで、中央集権制の効力の試金石のひとつとなった。
さて、百済から救援を求める使者がついたのが、611年10月のこと。年末には天皇が明日香の宮どころから難波宮に動座(天皇が居場所を移すこと)しています。翌正月の1月6日に天皇を乗せた日本軍艦隊は大阪を出発。瀬戸内海を西にむかいます。そして14日に熟田津到着。天皇たちは石湯温泉(今の道後温泉=漱石の『坊ちゃん』にも登場)にあった離宮に入ります。
約2ヵ月後の3月22日ごろ、熟田津を出航した艦隊は関門海峡を通って24日に筑紫(今の福岡県)の那大津(現在の博多)に到着し、付近に宮を建設、日本軍を統帥します。
このような事件の流れの中、この歌は熟田津出航の際に詠まれた歌だと考えられます。そうした背景をふまえて…
問 1:初句はなぜ「熟田津」なのでしょう?「住吉に」(大阪。出発地)とか「邑久の海に」(岡山。朝廷の施設があったらしく、寄港している)とか、出発地や寄港地など、いろいろ歌われてよかっただろうに、なぜ、「熟田津」と限定されているのでしょうか。考えて下さい?
問2:月を待つと潮加減がよくなったとはどういうことか、考えてください。
この問を考えるには、地理と地学の知識が必要です。
まず、問1の解答。熟田津の位置を考えてください。上に書いたように、松山には離宮がありました。朝廷の施設の中で、瀬戸内海の西のはずれにあったわけです。ここから西は関門海峡をこえて東シナ海に出ることになります。
さて、額田王たちは今、天皇に従って日本軍を率い、九州にむかおうとしています。10月に救援要請。2ヵ月後には動座。さらに数週間で出陣しています。軍備はどうだったと思います? その記録は残ってないようなので、実態はわかりません。しかし、国際戦争となれば、兵員輸送の船も必要だし、軍勢も召集しなくてはなりません。『風土記』の逸文(伝えられるうちにバラバラになったり、引用されたりして断片的に残った記述)に、岡山県では急遽2万人動員されたと記録されています(誇張はあるでしょうが)。そうしたときに、おそらく天皇が石湯行宮(あんぐう=行幸時の宿所のこと。「行幸」は「天皇のおでかけ」。)に2ヶ月も滞在したのは、老齢の天皇を気遣ったという説もありますが、それ以上に、天皇動座という事実によって新羅に圧力を加え牽制するとともに、軍備の時間にあて、兵員を熟田津に集めて軍隊を組織していたのだと考えるのが現実的でしょう。そして軍備も整って、いよいよ前線基地、九州へ出陣するわけです。その昂ぶりの中で詠まれた歌。「熟田津に舟乗せむと」という歌い出しは、いよいよ前線にむけて日本軍連合艦隊出撃という興奮を背負っているのです。
さて、問2。月と潮の関係は、大潮・小潮のことですね。地球に対する太陽と月の位置で、海面の高低の落差がかわります。瀬戸内海は内海なので、太平洋や日本海とはいくつかの海峡でつながっているだけです。月と太陽が直列して、つまり新月と満月の頃、太平洋や日本海の海面の高低落差がはげしくなって、海峡には急流が生じます(阿波の鳴門の渦潮はそのために起きる現象です)。月と太陽が直角に離れると、つまり半月の頃、落差は少なくなるので海峡の流れも減少します。月と潮はこういう関係にあるわけです。
実際、難波から熟田津までを地図上でみると、途中に明石海峡がありますが、天皇を乗せた船が明石海峡を通過するのは1月7日ごろ。当時は太陰太陽暦なので、新月の頃に1日がきて(だから1日をツキタチ>ツイ(イ音便)タチという)、15日ごろに満月となるので、ちゃんと流れが比較的穏やかな半月のころに海峡を通過しています。熟田津から那大津まで関門海峡を越えての移動も23日ごろなので半月の時期です。
さあ、熟田津に軍勢が集まりました。これから関門海峡を越えなければなりません。この海峡は潮の流れの速いところです。平家が滅んだ壇ノ浦の戦いも潮流が大きく作用しています。「月待てば潮もかなひぬ」という言葉には、航海上の難所をこえて戦場に向かう緊張感が宿っています。
「熟田津に舟乗りせむと」―軍勢集結、いよいよ出陣。「月待てば潮もかなひぬ」―難所を越えて戦場へ。この興奮の高まりの中、「今は漕ぎ出でな」と出陣の声が響き渡るのです。わずか31文字の中から、歴史的事件や地政学的条件、理科の知識を用いれば、映画のワン・シーンのようなドラマを読み取ることができます。
さて、このような歌を詠んだ額田王とは何者なんでしょうね。次回はそのあたりの歌を出題しましょう。
追記:額田王の熟田津の歌の性格についてはさまざまな説が出されています。実際に出陣の場で兵士を前に朗誦したかどうかはむしろ疑問で、出陣に関係する諸行事のどこかで詠まれたと見られています。「舟乗り」というのも軍船に乗り込むのではなく、祭祀のための行事のことであるとも、離宮での遊宴なのだとも言われています。ですが、この歌の根本には、やはり国際戦争があると見たいと思います。
5月2日出題 | 古尓 恋良武鳥者 霍公鳥 蓋哉鳴之 吾念流碁騰 | 巻2/112 |
訓読:いにしへに こふらむとりは ほととぎす けだしやなきし あがもへるごと
口訳:昔を恋するような鳥なら、それはホトトギス。さぞかし鳴いたかしら? わたしが想いこがれるように
●上の句は訓めてよね。「尓」は頻出。「良→ら」「武→む」もおなじみ。「者」を「は」と訓むのは漢文でも目にしたはず。「霍公鳥」はこれで三度目。
●「蓋哉鳴之」は漢文の実力が要るかも。「蓋」は「ケダシ」と訓むのは漢文に出てきます。「哉」は疑問を表します。
●「念」を「おもふ」と訓むのは、授業でチラと話しました。よくある訓です。わが・おもふ」で「わがもふ」と訓まれます
★この歌は、額田王(万葉集を代表する著名女流歌人)が晩年に詠んだ歌で、弓削皇子(天武天皇の皇子)が吉野宮から贈ってきた、
いにしへに 恋ふる鳥かも 弓絃葉の御井の上より鳴き渡りゆく(巻2/111)
という歌に答えたもの。上の句の「いにしへに こふらむとりは ほととぎす」というのは、111番歌の上二句の問いかけに答えたもの。この贈答歌がかわされたのは、天武天皇の崩御後のことで、妻の持統天皇が夫を慕って夫婦の思い出の地、吉野に出かけたときの作らしい。そういう作歌状況を考えると、この「いにしへ」というのは天武天皇の時代みたいだね。額田王は天武天皇の最初の妻のようだから、112番歌の「吾が念へるごと」とはそのような時代を思い出してのことばなのでしょう。この歌でも、「かくこふ」と鳴いているのだと、より味わいが深いのだけれど。
ところで、人間関係と時代関係、わかりますか?プリントなどで復習しておこうね。
5月1日出題 | 保登等藝須 奈尓乃情曽 多知花乃 多麻奴久月之 来鳴登余牟流 | 巻17/3912 |
訓読:ほととぎす なにのこころぞ たちばなの たまぬくつきし きなきとよむる
口訳:おい、ホトトギス なんのつもりだ? 橘の 花を玉に貫く月だっていうと 来て鳴きさわぐのは
●「保登等藝須 奈尓乃情曽」は、「情」以外万葉仮名。「保」は「ほ」の字母だし「奈→な」「乃→の」「曽→そ」と平仮名に変形したことは、原書講読を取った学生さんはおぼえてるよね? 「登」「等」「須」「尓」なども常連だったはずです。さて、前回前々回と「霍公鳥」と書かれていたホトトギス。実はカッコウでは、といいながらホトトギスなのは、この歌の題詞に「橙橘初咲霍公鳥翻嚶〜」(橙橘初めて咲き、霍公鳥翻り嚶く)とあって、「霍公鳥」について万葉仮名で「ホトトギス」と書かれているからなんですね。このような対応関係はこの歌以外にもたくさんあります。だから「霍公鳥」はホトトギスと訓むのは確定。え、とすると昨日の「かく恋ふ」というのはどうなるの? コトは歌の解釈も巻き込んでカッコウとホトトギスと「霍公鳥」と三つ巴の問題に発展しました。今日のところ、この先は自分で考えてみてくださいね。考えるポイントは「ホトトギス」は、多分和語。「霍公鳥」は漢語。和語を漢語で書くことの問題です。これ、書いた人、どこで「霍公鳥」なんて書き方、覚えたんでしょうね?
●「多知花乃 多麻奴久月之」も、「知→ち」「奴→ぬ」「久→く」「之→し」と字母ばかり。「多」も原書講読で登場したよね。「花」と「月」以外は万葉仮名です。「橘の玉ぬく月」というのは、橘や菖蒲など、香気の強い植物ををまるめて錦の袋にいれたか、香料をいれた袋を橘で飾ったかして、不浄を払い、邪気を避け、長寿を願ったことに由来するみたいです。これは五月五日の風習です。
●「来鳴登余牟流」はいいですね。「余→よ」ですし、「牟」も「流」も原書講読に登場していました。「とよむ」というのは、今「どよめく」という言葉がありますが、にぎやかに鳴きたてる様子を表現しています。
★これまで、作者不詳の巻10からの出題でしたが、今度は大伴家持の作品をとりだしてみました。天平13年4月3日、久迩京での作品です。家持の作品になると、万葉仮名も多く用いられます。まただれが、どういう状況で歌を作ったのか記録された歌も多く残っています。この歌は三首セットの2番目の歌で、作歌状況は、橘も咲いてホトトギスが鳴く季節に臨んで、鬱屈した気持ちを歌にせずにはいられない!と書いてあります。前日に平城京に残った弟の大伴書持(ふみもち)から歌をもらっていて、それへの返事として詠んだ歌です。鬱屈した気持ちとはなんだったのでしょうね(天平時代の歴史を調べてみよう)。
4月30日出題 | 霍公鳥 今朝之旦明尓鳴都留波 君将聞可 朝宿疑将寐 | 巻10/1949 |
訓読:ほととぎす けさのあさけになきつるは きみききけむか あさいかねけむ
口訳:ホトトギスが 今朝、夜明けにないたの あなた聞いたかしら 朝寝で寝てたかしら
●「霍公鳥」については昨日(4月29日)お話したとおり。これは訓めてほしい。
●「今朝の朝明けに鳴きつるは」は「ケサノアサケ」が重複したものいいになっているところがリズムをつくってます。回文に近いかな。「今朝」は今と同じ。そのままケサと読めばいい。「旦」という字は地平線の上に日が昇った形象なのでアサのことなのです。アサ+アケ=アサケですね。「尓」を「に」と読むことは原書講読Tでも教えたぞ。「都留波」は万葉仮名。完了の助動詞「つ」の連体形「つる」に、係助詞の「は」が接続。
●「君聞きけむか」は「将聞」が漢文になっているところに、疑問の助詞の「か」を「可」で書いています。「君」は女性が男性を呼ぶときに用いることが多い。
●「朝宿疑将寐」の「朝宿」を「あさね」とよんだ人。昨日の「よめる仮名?」をマスターした人と認定しましょう。でも、こんどは「い」と読むのね。意味は朝寝です。
★連休ですね。みなさん、朝寝しているのではないですか?誰ですか、朝になってから寝ている人は。あ、夜勤のバイトですか、ごくろうさま。でもこの季節、早起きは気持ちいいですよ。夜明けのキラキラした陽射にまだ暑くならないさわやかな風がふいて、気分爽快。朝の1時間で夜中の三時間分の仕事をこなせます。
さて、万葉の時代でも、寝坊の人はいたようです。が、この歌、よくわかりませんね。「君」というのを女性から男性への呼称と解釈すれば、女性が男と別の場所にいて、夜明けにホトトギスの声を聞いて男のことを想っているような感じです。でも、それだけの歌なのでしょうか? それじゃあつまらないですよねえ。そこで、問題となるのが、昨日も触れた「霍公鳥」のこと。昨日はこれは「カクコウ」と読めません? というだけだったのですが、ここではカッコーでないと面白くないんですよ。なぜか。カッコー=「かくこふ」と鳴くんです。「かく=このように+こふ=恋ふ」なんですね。はなればなれにいる男女。ふたりに聞こえるような鳥の鳴き声「かく、恋ふ」。「愛してるんだよぉ」という叫びが、カッコーの鳴き声に乗って相手に届いてはくれないだろうか、という想いが、歌にこめられているように見えませんか?
あなたはわたしの恋の叫びをちゃんと聞いてくれた?それとも寝てやしないでしょうね。
少し、歌が面白く読めませんか?
4月29日出題 | 霍公鳥 来鳴五月之短夜毛 独宿者明不得毛 | 巻10/1981 |
訓読:ほととぎす きなくさつきのみじかよも ひとりしぬれば あかしかねつも
口訳:ホトトギスが来て鳴く五月の短い夜も 一人でねると夜が明けないよ
●「霍公鳥」と書いてホトトギスのことです。ホトトギスは夏の到来を告げる鳥として、古典世界の中では知られています。たしか、トッキョトカキョクとかテッペンカケタカとか鳴くんじゃなかったでしたっけ? 高度成長期の東京生まれ東京育ちである惟光は、実はホトトギスの鳴き声なんか知りません。録音で聞かされても記憶に残るものではありません。やっぱり生活の中で、毎年夏が来ると耳にする、というのでないとダメなようです。でも、いいんだ〜。夏の到来に来る鳥として知っていれば。それに、よく字を見てください。「霍公」って漢字を音読みすると、カクコウと訓めません? これ、ひょっとして郭公のことなのでは? 気になるひとは自分で調べましょう(→11号館の図書館に開架で『櫻井満著作集』があるので、第3巻の162ページをひらこう)。
●「来鳴く五月の短夜も」は響きがいいなあ。一息に歌っちゃってるし。この「五月」は今だと六月くらい。6月22日ごろが夏至だから(理科の知識、身に付いているかな?)、もっとも夜が短い時期だよね。古典世界では、4月・5月・6月が「夏」。立夏は4月の初めになるわけ。ちなみに今年(2003年)は5月6日が立夏です。
●「独りしぬれば明かしかねつも」ってわかるかな? 短い夏の夜。あっという間に朝が来そうなのに、一人で寝ているから、夜を長く感じるというのさ。彼女と(あるいは彼と。あとでどっちか考えよう)一緒だと、あっという間に夜が明けるのに、ひとりだから…という恋の歌だね。「し」というのは強調の助詞。「宿」は「おやすみ〜」すること。「寝」と同じでこれを「ぬ」という。今は「ねる」だけど、古語だと「ぬ」。下二段活用だよ。「ねーねーぬーぬルーぬレーね」と活用する語で、平仮名で書いてある部分、「NE」と「NU」しかないでしょ?アイウエオのウ(-U)段を中心として下のエ(-E)段と二段の音しかないから「下二段」というんだよ(ルとレはオマケ。これは上下○段活用には共通するから、区別の対象とならないの)。高校の古文が苦手だった人、わかったかな?
「不得」をカネツと訓むのは、まず漢文的によんで、得ることができない→何を?→「明」を、というわけで「明」(アカス)ことができない=明かしかねる、で完了形で印象づけるんだね。
★この歌、男の歌か、女の歌か、この歌からは、はっきりいってわかりません。男が女のもとに通ったとかんがえると、どちらかといえば女性の歌でしょうか。『万葉集』巻10は、歌を四季分類して編集してあります。春夏秋冬の四季はさらに「雑歌」と「相聞」とに区分されていて、「相聞」は恋の歌を集めています。このホトトギスの歌(1981番歌<国歌大観番号or歌番号と呼びます。歌の背番号です)は、「夏の相聞」の冒頭、「鳥の寄す」というテーマで三首並んでいるうちの最後の歌になります。前の二首の歌は、
春さればすがるなす野の霍公鳥 ほとほと妹に会はず来にけり(1979)
五月山 花橘に霍公鳥 隠らふ時に 会へる君かも(1980)
とあって、1979番歌では「妹(=my sweet)に会はず」とあるから男の歌。次は「会へる君(=my
darling)かも」とあるから女の歌。そして両方とも離れて互いのことを想っているから、結局この三首は、離れ離れにいる恋人たちが、それぞれソロで歌って、最後にこの歌で二重唱になる、という構成を読み取れちゃうんだな。…なんていうと、この歌は同時に作られたものという証拠はない、とか三首をまとめて読む必然性がない、とかいう批判が来たりするのだけれど、こういった批判には、それは素材としてのこの歌の問題で、『万葉集』巻10、夏の相聞、「鳥に寄す」と題されて配列されたテキストを読むという次元では問題にならない、と答えましょう。でも、じゃあ、『万葉集』はそうやって歌を配列でまとめて読み解くものなのですか? という質問が来たら、どうする? その質問に対して、こう読むのだ、という証明をどうするのか。一つは資料を列挙するという方法があります。一つは文学理論で武装するという手があります。その辺は自分で考えてみてくださいね。