5,6,2003

古事記成立とその時代

志水義夫

【古事記の概要】
 『古事記』は西暦712年に、時の天皇、元明女帝に献上された。半年前の9月、太安万侶撰録が命ぜられていたものだった。元明女帝は、太安万侶に天武天皇の時代、稗田阿礼誦習させられた「勅語旧辞」を撰録するように言ったのである。太安万侶は、命ぜられたとおりに「勅語旧辞」を仔細に拾い集めて、天地開闢(かいびゃく)から推古天皇の時代まで、上・中・下の三巻に分けて書き上げたのである。
 上巻は神々の世界の物語であった。原初の時からいざなみ神いざなき神による国土生成、最高指令神アマテラスの誕生、スサノヲの冒険、オホクニヌシの国譲り、天孫降臨と世代をついで語られるのは、神々のクロニカル(歴王記)である。
 中巻からは天神御子、初代天皇の即位に至る物語から始まり、歴代天皇の婚姻と御子たちの情報(「系譜」)、そして恋と平定の物語が、時にはをおりまぜて続く。それぞれの天皇の名前、宮どころ、婚姻から語りだされ、その天皇の崩御の歳と陵墓の場所で閉じられる。歴代天皇ごとにまとめられたその記述は、クロニカル(歴王記)そのものである。

【古事記の性格】
 『古事記』とはいかなる性格の書であるのか。『古事記』が自ら成立について語る「序文」によれば、天武天皇が稗田阿礼に誦習を命じた際には、「邦家の経緯、王化の鴻基」と言って「勅語旧辞」を誦習させている。国家経営の根本だというのである。しかし、『古事記』に展開される物語は、恋(と、いうより求婚)と平定の物語で、そこに国家経営の根本を見出すには、高度な読解力=テキストの再構成力=が要求される。女好きが原因で皇后に逃げられ、あわてて後を追いながらゴメンもいえない「聖帝」の物語にどう国家経営の根本を見出すのか。
 もし『古事記』が国家経営の根本を示した書であるのなら、天皇から命令されて作られたことからいっても、それは歴史に名を残す出来事であったに違いない。しかし、奈良時代の歴史を記録した『続日本紀(しょくにほんぎ)』(平安時代初期の成立)に、『古事記』献上の記録はない。『古事記』と同じ内容(神話と歴史)を漢文で記した『日本書紀』の完成は記録されているのに、である。
 『日本書紀』は、編年体で、歴代天皇の時代の出来事を記している。それは『続日本紀』も同様だ。『続日本紀』は『日本書紀』を継いで編纂された歴史書だから、同じ観点で歴史記事の採択をしたはずだ。『日本書紀』も『続日本紀』も、年月順に記された人事や事件の内容を追って読んでいくと、その時代の様子が浮かび上がる。とくに『日本書紀』は、中国の『史記』のような文芸作品的芳香を漂わせている。そこには、強力な編纂方針が見える。『古事記』はその編纂方針から見て、記録することはない書と判断されたと考えるしかあるまい。それは、われわれが、『古事記』の物語を読んで感じる違和感=どこが国家経営の根本?=の正当性を平安の彼方から支えてくれる。
 だからといって、序文のいう「邦家の経緯、王化の鴻基」としての性格を否定するわけにもいくまい。『古事記』にはわれわれが違和感を抱くような所=物語=とは別の場所に国家経営の根本を設定しているのに違いない。と、すればそれは「系譜」であろう。中下巻を貫いて、系譜記述の様式性で歴代記を構築し、物語のない皇記すら許しているのは、この作品が系譜を主において作成された経緯を示している。系譜の記述が、より詳細な描写を求めるとき、物語や歌を取り込んで増殖し、今みるような『古事記』のスタイルになったのだ。だからこそ婚姻と平定の物語がほとんどを占めるのであり、また系譜の言説を歪めないかぎり、国家経営の根本らしからぬ物語すら許容することができるのだ。
 これは『史記』のような物語性に重点をおく『日本書紀』や記録性を重視する『続日本紀』のような観点とは相容れない性格である。それは一方で『古事記』が『万葉集』や『琴歌譜』のような歌集、楽譜の類に引用されている享受のあり方からも推測できるだろう。すなわち、『古事記』は系譜として形成されながら、物語や歌を自らの中に表現したために、国家経営の根本の書とは享受されなかったのだ。
 『古事記』は本来的に系譜である。その婚姻関係と出生関係を図化すると、きわめて閉鎖的な構造をしていることに気付く。上(より古い時代)から下(新しい時代)へ系譜をたどると、多くの御子が氏族として分家してゆく。しかし、『古事記』を「国家経営の根本」と言った天武天皇から歴代天皇を上にたどってゆくと、母親の父系は、ほとんどが皇族に戻ってしまう。すなわち、この系譜は天武天皇に続く純血種を明確にし、皇族以外の氏族を分家化する系譜なのだ。

【古事記の時代】
 天武天皇の時代から712年にかけては、ちょうど律令国家建設の最終局面であった。7世紀初頭、推古天皇の時代から倭の国は朝廷の機構改革が始まり中央集権化が推進された。中央豪族は官僚として年齢や勤続年数、考課などで序列化され(官位)、中央政府の各職分を与えられる。家柄によって職分が決まり、合議によって政権を運営していた時代(氏族制度)は高度にシステム化された政治形態に移行していった。氏族はそれまでの宮廷内における位置を再確認しなくてはならなかったのだ。それは王家とて同じである。
 序文を読むとわかるが、天武天皇が「邦家の経緯、王化の鴻基」といったのは「諸家の齎(原文は異体字)てる帝紀及び本辞」と呼ばれた文書のことである。これの実態は不明で「諸家」とは各氏族のこと、「帝紀」は天皇の系譜、「本辞」は伝承された歴史的な事柄を記したものと考えられている。「本辞」については、その氏族と天皇家との奉仕関係を神話的に記したものともされ、上記のような氏族の再編にあたって、各氏族が自家を有利に位置づけるために改竄がなされた。それを天武天皇は「朕聞かくは『諸家の齎たる帝紀と本辞と既に正実に違ひ、多く虚偽を加ふといへり』。今の時に当りて、その失を改めずは、いまだ幾年を経ずして、その旨滅びなむとす」(訓読は角川文庫版『古事記』による)と危機感を持ち、「帝紀を撰録し、旧辞を討覈して、偽を削り実を定め、後葉に流へむ」と思ったのである。このあたりの序文解釈は、多くの問題を含んでいて、実態にどこまで迫れるか、本文の検討からはじめる必要があるが、以上のような流れは定説として認めてよい。
 『古事記』の成立の出発点には、まさに王家を含めた各氏族が、これまでの権益を守りつつ自家の社会的位置付けを主張しなくてはならない時代があった。これは『日本書紀』に記録された孝徳天皇から天武天皇の時代にかけての記事から跡付けることができる。幾度となく氏族に関する法令が出されているし、氏族再編については天武天皇の時代に定められた「八色の姓」の制度が象徴している。『続日本紀』などにも、天武天皇の時代に出されたある家の属する氏族についての書類に誤りがあったので訂正を求める記事が散見される。これらの記述からは、どの氏族に所属するのか、証拠とされた文書の存在が想定される。その文書こそ、系譜であろう。上記の『古事記』の成立に関する通説はこのような歴史的事件の上に確認されるのである。
 要するに、『古事記』は国の中央集権化にともなう氏族再編という社会的変動の上に、王家がみずからを天皇と位置づけるために作られた系譜なのである。

【文芸としての古事記】
 『古事記』を本来的に系譜であると位置づけたとき、物語や歌の存在はどうなるのであろう。それは『古事記』において、物語や歌とは系譜記述にとって、どのような意味づけがなされているのか、という問題にほかならない。そして『古事記』の物語が天皇や皇子の求婚の話と、国土平定の話にほとんど限定されること、歌もそれらの物語に関連付けられたもの以外は、天皇賛歌もしくは宮廷賛歌の類であることを見れば、系譜記述の中心である、天皇・宮・后妃子女についての説明的要素を根底に持っていることが予想される。すなわち、「A天皇がBさんのむすめ、C姫と結婚してDくんを生みました」という系譜記述に対して、天皇は彼女にどう求婚し、あるいは結婚生活をしたのかが、細かく叙述され、物語叙述を生むのである。
 その叙述が精緻を求めてゆくと、よりリアルな表現描写が生まれてくる。そこではもはや系譜記述とは直接的な説明関係は生じない。そのかわり、描写・演出といった次元で文芸の域に発展する。『古事記』の叙述は文芸を指向している。それは系譜と記述として出発しながら、記述内容の説明を加える中に、描写に興味を持つことで、系譜としての性格を、物語叙述の背後に沈潜させることになったのだ。その作業は複数の人間の手を経てのものではあるまい。強力な文芸的個性の持ち主が推進したに違いない。だが、それを誰と特定することは困難である。
 序文は、太安万侶が撰録したものを「稗田阿礼が誦める勅語旧辞」とするが、一方、天武天皇が稗田阿礼に誦習を命じたのは「帝皇日継及先代旧辞」であった。「帝皇日継」が天皇の系譜をいうのであれば、稗田阿礼から太安万侶までの間に系譜が失われたことになる。しかし、『古事記』は系譜記述を確固と残している。この名称の変化は、『古事記』が天武天皇の時代から元明女帝の時代までに書としての性格を変換させられたことを意味するだろう。これは『古事記』の問題ではない。稗田阿礼や太安万侶をふくめた『古事記』の享受者の問題なのだ。すなわち大宝律令施行後10年以上もたった段階で、『古事記』は系譜として享受される必要はなかった。そこには恋と戦いの歴史物語が見えていただけなのである。

【古事記の成立】
 『古事記』成立の年、712年は710年の平城遷都からわずか3年の後である。この時期に天武天皇の遺業(やりのこしたこと)として『古事記』が献上されたことは偶然ではあるまい。都城とよばれる都市計画にのっとった街である平城京とその前の藤原京は、律令制度と深い関係にある。すなわち、帝皇を中心とした法と官僚による文書行政の姿を、形として表現するのだ。平城京が出現したとき(その建築物の多くは藤原京から移築されたものだ)、そこには天皇という宇宙の中心が新たに位置づけられなくてはなかっただろう。それは支配の歴史でもある。そのような中で『古事記』は再発見されたのではなかったか。恋の様子も戦闘の様子も問題ではない。平城遷都と期を同じくして、とりあえずも天皇の歴史が文字で書かれたものとして、献上という形をとって具現することが重要だったのである。その次元で、再び『古事記』は国家経営の根本という性格を取り戻すことができる。しかし、その性格は8年後の720年に漢文体で書かれた正史『日本書紀』の完成をもって終了する。以後、『日本書紀』の講筵(講読)が宮廷行事として平安時代まで続けられる。『古事記』は秘書として、神祇官や伊勢神宮などの国家祭祀の領域で伝えられるようになる。「邦家の経緯、王化の鴻基」として再度復活するのは、江戸時代後半になって、本居宣長が『古事記伝』をあらわし、明治から戦前かけてナショナリズムが高まる時期なのである。

読んでみよう:
【入門編】
  菅野雅雄『記紀夜話』(おうふう)2002、3月→中央図書館にあります(開架)。
  神野志隆光『古事記 天皇の世界の物語』(NHKブックス)1995、9月→中央図書館にあります(開架)
  神野志隆光『古事記と日本書紀』(講談社現代新書)1991、1月→中央図書館にあります(開架)
【専門編】
  武田祐吉『古事記研究―帝紀攷―』1944、1月(武田祐吉著作集第一巻)→中央図書館(書庫)にあります。
  西條 勉『古事記の文字法』(笠間書院)1998、6月→11号館図書館にあります(開架)。
  坂下圭八『古事記の語り口』(笠間書院)2002、4月→11号館図書館にあります(開架)。
  古事記学会編『古事記の成立』〈古事記研究体系1〉(高科書店)1997、3月→11号館図書館にあります(開架)。

などなど

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