の試み

――古典文学末流考U――

更新日:6/2

書き込み日誌

5/13 今日は第2章にタキシード仮面について書きました
6/2 久しぶりに書こうとしたら、書く内容を忘れている!
そういうときは作品に即してつらつら書いてみると、カンが戻る。

(本稿の発表時点は2003年4月26日とします。)

はじめに)古典の創造力

(問題点の提示。本稿作成の動機など)
 「古典文学」は江戸時代以前の文学作品として一般に理解されている。それは〈古典文学〉と銘打った全集のたぐいが江戸時代以前の作品を収録していることから言えることだが、岩波書店の新日本古典文学大系は「明治編」として樋口一葉や幸田露伴、森鴎外らの作品が収められている。ここに「古典文学」に対する概念が揺さぶられている現状を知ることができる。
 だが、この概念の揺らぎは、われわれに「古典文学」という概念が江戸時代や明治時代という政治史上の区分の上に、いいかえれば時間軸の分節化の上に、立脚していたことを知らせてくれる。端的にいえば、「古い作品」はすべて「古典文学」なのである。「古典的」ということばに内在するマイナス的評価――「古臭い」と同義――と同じレベルで「古典文学」というジャンルが定義されるように思われる。
 そもそも「古典」とはいかなる意味であるのか。
 池田亀鑑によると、「古」とは「十」と@「口」とからなる字で、十人の口を経るということで時間軸の長さを意味し、「典」はテーブルの上に巻物が並べられている字で、大切なものを意味するのだという。さらに「古典」とは英語Classicの語源となったラテン語のクラシキ=最上のものの意味の翻訳語なのだという。註@池田亀鑑『古典文学入門』〈岩波文庫〉池田によれば、「古典」とは「最上のもの、たくさんの人が伝えようとするだけの価値のあるもの」なのだという。
 古典作品は、悠久の彼方から存在しつづけたわけではない。そこには、誰と特定できないまでも、作者がおり、新作として享受した者たちがいる。数多くの作品が生まれる中で、享受者たちは、よい良いもの、伝える価値があると感じたものを、他人に、子孫に教えていった。十人以上の口から耳へ、目から口へ、評判はテキストとともに伝承されて、いま此処にある。
 (ここに註@池田亀鑑『古典文学入門』〈岩波文庫〉によって「古典・Classic」の概念定義をいれるスミ
「古典文学」とは「時間・空間を越えて伝えられる虚構作品」だというべきではなかろうか。で、あれば、過去にも現在にも「古典文学」はあってよい。
(以下、二足歩行のロボット・携帯電話などを60年代の未来図、こども番組などから、作品の未来に与えた影響について述べる)
 かつて、TVアニメ『機動戦艦ナデシコ』をとりあげ、現代のマンガやアニメがいわゆる「古典文学」(=江戸時代以前の文学)の流れを技法的に汲んでいることを論じたが(註A拙稿「古典文学末流考―アニメ『機動戦艦ナデシコ』の技法ー」『嘉悦女子短期大学研究論集 42巻1号(通巻75号)』(1999年))、本稿では、知名度という点、享受の広がりという点で『美少女戦士セーラームーン』をとりあげ、その内的側面から現代における「古典文学」の可能性を考察する。

1)問題の所在

(セラムンの発表時期を1960年代からの社会世相の流れの上に定位する。資料にはアニメ番組を用いる。)
 『美少女戦士セーラームーン』は、コミックス全18巻・TVアニメ全200話・ゲームと多面的に発表され、また舞台化もされている著名な作品である。麻布十番に住む中学二年生の少女、「月野うさぎ(=セーラームーン=セレニティ)」を主人公とした恋と戦いの物語で、太古の月の王国の王女であった彼女は、同じく家来であった「水野亜美=セーラー・マーキュリー」「火野レイ=セーラー・マーズ」「木野まこと=セーラー・ジュピター」「愛野美奈子=セーラー・ヴィーナス」とめぐりあい、友情を結び、地球を支配しようもしくは滅亡させようという敵と戦いつづける。さらに月の王女だったころの恋人、エンディミオン(=地場衛=タキシード仮面)とも再会し、愛を実らせるのである。家来は最終的には太陽系の惑星に対応して9人に達し、未来のむすめまで登場する。
 これら登場人物群は、タキシード仮面以外は少女として設定されており、作品の中でも男性の活躍する場面はほとんど存在しない。「敵」ですら多くは女性であり、まさに「戦場から男が消えた」
(註BNHK放映「懐かしのこども番組大集合」1997年11月24日、BS2)作品なのである。そこがこの作品の問題とすべきところだと思われる。
 問題点をすこし掘り下げてみよう。
 
このアニメ作品(以下、『セーラームーン』とする)は、東映がTVアニメシリーズで推進してきた所謂〈魔法少女もの〉の作品系列に区分される。この系列は、『魔法使いサリー』(1968年放映開始)から流れるもので、超常能力を持った異界の少女がわれわれの世界にやってきて友人を得、種々の事件に対処してゆく話を基幹とする。ただし、『サリー』をはじめシリーズの多くの作品で遭遇する事件は、ある種の日常的出来事の枠組の中にあった。しかし、『セーラームーン』の場合、友人は戦友であり、事件は異界の生物の陰謀であり、その超常能力は戦闘的だ。この点はむしろ同じく東映が特撮TVシリーズとして推進してきた『秘密戦隊ゴレンジャー』(1975年放映開始)以来の〈戦隊もの〉の系列が混入してきたと見ても大きく外れはしまい。
 〈魔法少女もの〉は基本的に少女を視聴者に仮想しており、同様に〈戦隊もの〉は少年を視聴者に想定している。それらが混在してゆくところに、〈少年向け/少女向け〉という枠組の崩壊をみることができよう。これをもう少し一般的にかつアニメ史的に見ておきたい。
 60年代後半(昭和40年代前半)に放映された『魔法使いサリー』は横山光輝の原作であるが、同じ原作者を持つ作品に『鉄人28号』(1963年放映開始)がある。TVアニメの濫觴として著名な手塚治虫原作の『鉄腕アトム』の放映から約半年遅れて放映され始めた『鉄人28号』は、太平洋戦争時の日本軍の最終兵器として開発された鉄人(ロボット)が、戦後再開発され、少年探偵金田正太郎の手にはいりつつ、東西冷戦のスパイ合戦によって敵の兵器になったり味方の兵器になったりする、鉄人の操縦機の争奪を描いたスリルとサスペンスの物語である。そこに女性はほとんど登場しない。正太郎君は恋することをしないのだ。逆に『魔法使いサリー』では、主人公サリー少女の憧れの男の子はいても、恋愛に発展することはない。
 ところが、1970年代の作品をみると、同じ系列でも様相を変えてくる。『鉄人28号』の系列にあるロボット・ヒーローものでこのころの代表作といえば永井豪原作の『マジンガーZ』であろうが、主人公兜甲児には弓さやかという恋人が登場する。しかも弓さやかはアフロダイAというロボットの操縦者で敵機械獣と戦うのだ。だが、最終的には兜甲児の搭乗するマジンガーZに助けられるのである。

 
巨大ロボットに乗って戦うというモチーフは戦隊ものにも流入するが、アニメでは東映の「○○ロボ〜」シリーズとサンライズの「無敵○人〜3」シリーズを中心に多くのロボットものが生産された。その特質はおそらく會川昇・佐藤龍雄らが『機動戦艦ナデシコ』(1996年放映開始)の劇中アニメ「ゲキガンガー3」によって総括したような、「熱い男の戦い」においていいだろう。このような特質に対して異質な要素を前面に押し出したのが『機動戦士ガンダム』(1979年放映開始)であった。そこには〈戦場〉という非日常世界に放り込まれ、ロボット(モビルスーツ)を操縦して戦うことを余儀なくされた少年アムロの成長物語は、等身大の主人公と脇役の充実によって享受の世界を拡大した。
 70年代は『マジンガーZ』のほか、『タイガーマスク』(1969年放映開始)、『あしたのジョー』(1970年放映開始)、『ルパンV世』(1971年放映開始)、『帰ってきたウルトラマン』(1971年放映開始)、『仮面ライダー』(1971年放映開始)とヒーロー物で始まりひとつの流れを生み出して80年代以降に続くが、『機動戦士ガンダム』放映のころから新しい潮流も生まれてきた。80年代には『ベルサイユのばら』(1979年放映開始)、『うる星やつら』(1981年放映開始)、『キャッツ・アイ』(1984年放映開始)、『ダーティ・ペア』(1985年放映開始)など、〈魔法少女もの〉や〈名作もの〉(『アルプスの少女ハイジ』のような)とは異なった、それまで男性キャラが位置していた場所に女性をおいた作品が輩出する。『うる星やつら』の諸星アタルにせよ、『キャッツ・アイ』の俊夫さんにせよ、男はどこか道化の役を負わされているのである。
 そうしてロボットものでは『機動警察パトレイバー』(1989年放映開始)において、女性操縦士を主人公と置くに至る。男性操縦士太田巡査はやはり道化の性格をもたされており、また女性操縦士を支える男性は後方支援をする役が与えられている。『セーラームーン』が放映された90年代は、このような流れの上に位置するのである。
 以上は、社会における女性進出と無縁ではない。例えば、男女雇用機会均等法が制定されたのは1972年であったが、そこで義務努力や一部禁止とされていたいくつかの条項が1995年に禁止あるいは義務化と、より規制のつよい内容に改正されている。禁制がでることは、その逆を考えればいいから、社会における男女の役割の不均衡が問題になるほど、女性が社会の中で重要な位置を占めるようになってきたということだ。それは兜甲児と弓さやかの関係(『マジンガーZ』)から、泉野明と篠原遊馬の関係(『機動警察パトレイバー』)へと変化したあり方に等しい。
 ようするに60年代以前、一つの中で住み分けられていた男女が、70年代から80年代にかけて共存を始めたものの、男性主体(男が女を守る)から女性主体(女が男を守る)へと変化していったということなのだ。「戦場から男が消えた」という『セーラームーン』へのコメントは、このような社会史やアニメ作品史の上に位置付けられよう。まさに女性の社会進出にともなって生まれてきた作品なのである。そこにこの作品に対する視角を得ることができる。

(セラムンの種類と発表時期とから、本稿で対象とするテキストを限定する。)
 さて、1992年からTV放映された『セーラームーン』は一年ごとに新シリーズとなり都合5シリーズの作品を形成している。すなわち、
  イ)『美少女戦士セーラームーン』(1992−1993)
  ロ)『美少女戦士セーラームーンR』(1993−1994)
  ハ)『美少女戦士セーラームーンS』(1994−1995)
  ニ)『美少女戦士セーラームーンSs』(1995−1996)
  ホ)『美少女戦士セーラームーン セーラースターズ』(1996−1997)
である。放映に先立って武内直子によるマンガ版が『なかよし』1992年2月号(講談社)から連載され、まもなくコミックス化されている。TVアニメ版とマンガ版は内容的にはほぼ同一で、TV版のほうが、「基本的に一話完結」の制約をうけ、マンガよりエピソードの独立性を強くしているが、作品内世界に決定的な差異は総体的に見出せず、性格的に同じ作品と見て問題はないだろう(原作マンガとアニメとで作品的性格が異なることは一般的に珍しくない)。それぞれの作品初出の時期の近接、および以後の並行的成立から見て、ことさら両者を区別する必要はないと判断する。本稿では、テキストとしてマンガ版を用いるが、適宜アニメ版にも目をむけることにする。また、マンガ版は上記イ)〜ホ)のシリーズ間に作品名の区別化を行っておらず『美少女戦士セーラームーン』で統一しているが、便宜上、マンガ版に対してもイ)からホ)に対応させて、
  イ)「ムーン」
  ロ)「R」
  ハ)「S」
  ニ)「SS」
  ホ)「スターズ」
と呼称することにする。なお、「外伝」として『コードネームはセーラーV』が1991年から1997年まで『るんるん』に連載された。同題コミックス@の第3話が最初に発表されたものであるが、

(研究史として、『竹取物語』からの流れやゲーム面での展開を論じた山田利博氏やファンダムという点で享受者を論じた小林義寛氏の論考を紹介する=テキストに対する視角の多様性を示す)
(本稿の立場をはっきりさせる=問題点を明確にする=視角を定める)

2)作品分析

(登場人物の性格付けを「うさぎ」と「まもちゃん」「ちびうさ」の関係に焦点を絞って行い図式化する。)
 『セーラームーン』に登場する中心人物は、主人公セーラームーン(=月野うさぎ、プリンセス・セレニティ、ネオ・クイーン・セレニティ)とその友人で家来である次の「セーラー戦士」、
  a:セーラー・マーキュリー(=水野亜美)
  b:セーラー・マーズ(=火野レイ)
  c:セーラー・ジュピター(=木野まこと)
  d:セーラー・ヴィーナス(=愛野美奈子)
                        (以上、全シリーズ)
  e:セーラー・プルートー(=冥王せつな)
                        (「R」以下)
  f:セーラー・ウラヌス(=天王遥)
  g:セーラー・ネプチューン(=海王みちる)
  h:セーラー・サターン(=土萌ほたる)
                        (「S」以下)
それにセーラームーンの恋人タキシード仮面(=地場衛、エンディミオン)と、ネオ・クイーン・セレニティとエンディミオンの子供セーラーちびムーン(=月野うさぎ、ちびうさ)である。舞台は20世紀末の東京、麻布十番だが、ちびうさは30世紀から時空を超えてやってきている(「R」〜「SS」)。すなわち『セーラームーン』の世界は20世紀の東京を中心に三つの時間を交差させて成り立っている。
 これらの中心人物の中で、核となるのはセーラームーンとタキシード仮面、ちびうさの三名である。セーラー戦士a〜dは、いわばセーラームーンの側近的位置付けで、補佐する役目が担わされている。e以下はセーラームーンの臣下という位置付けでは側近4戦士と同じだが、「S」および「SS」においてはhとちびうさを中心とした別の位置付けがなされる。しかし、それもちびうさとの関係性を生じており、セーラームーン、タキシード仮面、ちびうさを核とする図式の支配下にある。
 核となるこの三人は、父と母と子という系譜関係にあるが、母と子とは名前を同じくする。すなわち、〈地場衛/月野うさぎ〉という関係性がまず生じ、さらに月野うさぎが母と娘という関係性を構築するのである。以下、物語に即しつつ、この関係性を図式化してみたい。
 まず、「ムーン」ではちびうさは登場しない。ここでは、十番中学の二年生「月野うさぎ」がセーラームーンとなり、〈セーラーVのように〉敵クインベリル・クインメタリアとその配下の四天王をやっつける物語として開始される。、地場衛=タキシード仮面は、当初この対立(セーラー戦士と敵)とは異なる場所に位置して、両者の対立に参入している。この図式はアニメの方が顕著である。多くのエピソードでタキシード仮面は窮地にあるセーラームーンを、薔薇の花を投げて援助する役割が与えられている。しかし、彼自身が敵と戦う場面はまれであり、最終的に敵を滅ぼすのはセーラームーンに限られている。 「月野うさぎ」は惚れっぽく好奇心旺盛で軽率な少女としての性格を前面に出して登場する。ルナという物を言う猫と出会い、自分の戦士としての役割を知るが、与えられた使命に対する自覚が不完全な状態で「ムーン」の前半は展開してゆく。(以上赤字部分削除)コミックス@〜Cにわたって展開される「ムーン」13話(Act1〜13)のうち、Act7でタキシード仮面が地場衛であることが月野うさぎ=セーラームーンに判明する。そこに至る間、彼の彼女に対する言葉をネーム(マンガの中の字の部分)で追ってみよう。
  Act1:「泣くな、やるならいまだぞセーラームーン」(@34ページ)
  Act2:「いまだ!けりあげろっ」……「はやく友だちを助けてやるんだな」(@70〜71ページ)
  Act3:(猫=ルナをうけとめるのみ)(@105ページ)
  Act4:「きょうはきみに助けられたな。礼をいうぞ」(@146ページ)
  Act5:(月野うさぎの部屋にあらわれ、事件現場にいざなう)(@178ページ)
  Act6:「変身するんだ、セーラームーンに!わたしにはこの事態はどうにもできない」(A36ページ)
      「しっかりしろ!セーラームーン!きみならできる!」(A40ページ)
  Act7:「バリアがはられていて近づけない………」(A87ページ)
Act1・2は援助、Act4〜7は自ら無力を表明している。一方、セーラームーンは、上記のネームの前後を見ると、
  Act1:妖魔におびえて泣いている。
  Act2:霧の中で敵を見失っている。
  Act4:ベランダから落ちるところを、助けようとしたタキシード仮面とともに落下中。
  Act6:敵よって力を奪われている。
  Act7:敵に羽交い絞めにされて苦しんでいる。
という状況にあって、タキシード仮面の登場を境に敵に逆襲を始めるようになる。Act7では、無力なタキシード仮面のかわりにセーラームーンを援助するのはセーラーV=セーラーヴィーナスである。タキシード仮面はAct8にいたって、この場面の続きで「オレの手で守れなかった」(A100ページ)と悔やんで、自らの非力を認めている。(以上のような関係を示すには表にしたほうがわかり易く、文章も簡略化する→あとで書き直す)
 このAct7からAct8にかけてタキシード仮面が非力を認めるのとうらはらに、セーラームーンはAct1や2のような非力さは見せず、戦場において墜落を受け止めてくれたタキシード仮面に対して「また助けにきてくれた……(心内文)」と感謝しながら一方で彼に「ここは危険よ、敵はあたしたちがたおす!できるだけ遠くへにげて!」と言い、キスをして敵にむかってゆく(A130ページ)。そして敵から攻撃されそうな仲間たち(セーラジュピター・マーキュリー・マーズ)を「守らなきゃ」と身を挺してかばうのだが(A134ページ)、ここでタキシード仮面は「あいつはオレが守る、こんどこそ」と敵の攻撃を直接にうけてやられてしまうのである(A136ページ)。そしてそれをきっかけにセーラームーンはプリンセス・セレニティとして覚醒する(Act9、A142〜156ページ)。
 その後、タキシード仮面は、洗脳されて「敵」として登場する。名称も「地場衛」ではなく、「遠藤」と名乗る。最終局面でタキシード仮面はセーラームーンと対決するが、それはセーラームーンによるタキシード仮面の殺害、およびセーラームーンの自決という結果になる。ただし、実際は死なない。さらに(ここで2週間中断。あ、書くことわすれてる!やりなおし)
 自決した二人は「幻の銀水晶」に包まれ、側近たちの死を経て、復活。敵、クインベリルを倒す。

以上をタキシード仮面に焦点をおいて図式化すれば、
  前世=地球の王子エンディミオン
  転生=地場衛。自己探しでタキシード仮面となる。
  苦難=死と再生、名称の変化(=「遠藤」)
  復活=地場衛=エンディミオンとして覚醒
となり、典型的な通過儀礼型の話型(貴種流離譚)の構造の枠組みを見せる。

 

3)作品の構造化

(「2)」の図式に意味づけを行う。)
月野うさぎと地場衛の関係は、〈守る/支える〉という関係になっている。
「月野うさぎ」という名称は「セーラームーン(うさぎ)」と「セーラーちびムーン(ちびうさ)」とに二分化されている。
「うさぎ」は『ムーン』で戦士として覚醒し、女王へと成長する。
「うさぎ」は「ちびうさ」の登場で「母」へと成長する。
「ちびうさ」は『R』でブラック・レディという通過儀式を経由し、戦士・王女となる。
「ちびうさ」は『SS』に至ってエリアスとのほのかな恋にめぐりあい、守る側に成長する。
「月野うさぎ」の守る対象は「地球」というレベルに拡大する。
「まもちゃん」は「月野うさぎ」の成長を促進する装置として機能する。
「まもちゃん」の支える対象は「月野うさぎ」に限定されている。
「月野うさぎ」は社会を指向し、地場衛は家庭を志向する。

4)セーラームーンの語るもの

(「はじめに」と「1)」と関連付けて作品を論じる)
『セーラームーン』は女性進出という社会現象の中に生まれた母性の誕生と確立の物語である。
とらえかえせば、父性が家庭に封印される物語ということにならないか。
従来の図式にのっとれば、家庭=母性の拡大により「社会」が「家庭」へと変化してゆくことになる。
それは〈母性/父性〉〈社会/家庭〉というような従来の価値観を破壊する意味をもつのではないか。
従来の価値観が崩壊し、あらたな価値観が求められ混迷する現代日本において、『美少女戦士セーラームーン』は、その混迷の由来を明確にする言説としてうけとめられよう。「〈今〉の由来を語る言説」という点で、これは〈神話〉であるといってもよい。
セーラームーンは古典たりえるか。それは〈90年代の少女たち(作品の享受者)〉が、この作品と再会し、この言説から何を読み取り、何を生み出すかにかかっているであろう。
〈90年代の少女たち〉に潜在する作品の言説を読み取り未来を生み出す能力を開発することが、文学研究と教育の社会に対する役割なのである。(←注意! 冒頭と対応していないので、これは結論or結語にならない。要修正)

小括)

(以上の要約)

【覚書】
今日の作業:
(4/25)目次つくり。全体で何をいおうか、立論する。1)から4)は起承転結にしてある。
1)起 せーラームーンについての概要(あらすじ)。作品成立の背景(=昭和アニメ史)
2)承 1)を享けて、登場人物の性格付けをおこなう。(前回『ドラえもん』の復習)
3)転 以上の作業を経て分析にかかる。
4)結 作品を論じる。
(4/26)目次をもとに、各章でいうことを箇条書きにする。
(4/27)昨日の続き。1)に書き入れ。
(4/28〜)さらに書き入れが続く。書き入れているうちに文章が生まれてくる。

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