ライ麦酵母パン

【ライ麦酵母パン(ライサワーブレッド)】
 
ライ麦は小麦、大麦に次いで生産量の多い麦で、パン食文化圏の主要穀物のひとつです。小麦の栽培に適さない土質や気候、標高のところで育つので、北欧やロシア、ドイツやスイスの山岳地方で広く栽培され、各地で独特のパンを生み出しました。いわゆる黒パンの中心材料となるライ麦には、グルテン成分のうち弾力性をつくるグルテニンが欠けているので、水をこねても粘つくだけで、ガスを包み込む膜ができません。そこで小麦粉と混ぜたり、グルテン粉で補強したりしてパンをつくるのが一般的です。
《グルテン:普通はコムギグルテンを指します。水に不溶性のタンパク質で小麦中のタンパク質の約 85% をグルテンが占めます。グルテンは、グルテニンとグリアジンという 2 種類のタンパク質からなっています。パン生地をこねることによって、これらのタンパク質が絡み合い会合し、粘弾性を帯びた網膜組織を生じます。このグルテンの膜が発酵で生じた炭酸ガスを閉じこめることによって、生地が風船ガムのように膨らんでいくわけです。》

【ライサワー種】
 
ドイツはライ麦パンだけで何百という種類があることで有名ですが、この多様性には地方ごとに受け継がれている「ライサワー種」が貢献してます。この「サワー種」には酵母と乳酸菌が共存していて、両者の発酵が、製パン性の劣るライ麦粉の生地を改良し、パンに爽やかな酸味を与え、パンの日持ちも良くしてます。そもそも「種」とは生地の一部を焼かずにとっておき、酵母を生かした状態にしてある少量の古生地のことです。この「種」を次回の材料に加えると、なかの酵母は、またその新しい生地を膨らませます。ドイツの「サワー種」は、いわゆるおばあちゃんから、お母さんへ、そして孫へと受け継がれていきます。まるで日本の糠床みたいなものですね。このように自然な状態で長い期間を「種」が安定に受け継がれていくためには、気候風土が特に大切です。今では、ごく優秀な「種」ができる地域のものだけが生き残って「伝統種」として珍重されています。
  サワーブレッドは酵母菌と乳酸菌の相互作用によってつくられることが明らかにされています。酵母はサッカロマイセス・エクシグース(Saccharomyces exiguus)という酵母が主に働いているとされていますが、これは多年使用されてきたパン種生地であるので、耐酸性のあるこのような特定の酵母が選択的に濃縮されたものと考えることができるでしょう。一方で乳酸菌は、ラクトバチルス属(Lactobacillus)に属する乳酸菌が主に働いているとされています。そして、両方の菌がバランスをとって共存しています。 乳酸菌はどうして乳酸をつくるのでしょうか。乳酸菌が酸素のない嫌気的な条件におかれた時に乳酸をつくることを「乳酸発酵」といいます。(酵母菌が嫌気的な条件でエタノールをつくることを「エタノール発酵」。)このしくみは動物が筋肉の中で酸素を使わずに糖を分解する解糖のしくみとまったく同じです。乳酸菌は酸素がない状態で生育するために、グルコースを分解してエネルギーを取り出し、副産物として乳酸を生じます。なお乳酸発酵には、グルコースから乳酸のみを生じる「ホモ乳酸発酵」と乳酸の他にエタノールを生じる「ヘテロ乳酸発酵」という二種類の発酵形態があり、菌の種類によって決まっています。

伝統種】
 
ドイツのライ麦パンの他に、サンフランシスコのサワードウブレッド、イタリアのパネトーネ、日本の麹種のあんパンなどは、そうした「伝統種」の産物です。このうち、麹種はカビに属する麹菌、その他は細菌に属する乳酸菌が特定の酵母と共存して独特のパンを作ります。カビや乳酸菌にはパン生地を膨らます力はありませんが、主に風味や保存性に貢献しています。  
  「なぜ、日本はカビでヨーロッパは乳酸菌なの?」という疑問が湧きませんか? インチキみたいですが答えは簡単です。日本はカビが生えやすいから。ヨーロッパは乳酸菌が生えやすいから。大陸内部の方に行くともっと乳酸菌が生えやすい環境になります。だからヨーグルトが発達したのです。現代では微生物の成育環境を簡単にコントロールすることができますが、そのような手段がなかった大昔は、自然に育ってくる周りの微生物を利用するしかなかったのです。ある気候風土の環境下で育った「パン種」のなかには上に挙げたような微生物のバランスの良い優秀な「種」が出現し、それ故、現代まで守り伝えられたのでしょう。それが「伝統種」です。  
  一般に、他国の「伝統種」を我が国に持ち帰り作ろうとしても本来のものが出来ないと言われており、これはまさしく気候風土の違いによるものと考えられています。ただ、他国の「伝統種」を日本風にアレンジ出来れば、それはそれで興味深いことではないでしょうか。

【サワーブレッドの効用】
 
毎日一定量以上のサワーブレッドを食べ続けると効果はあるかもしれませんが、普通の人はそのようなわけにはいかないので、あくまで参考程度にして下さい。
@ 乳酸菌の効用 :近年、乳酸菌のプロバイオティックスとしての効用が期待されています。これは乳酸菌生菌体の人体内での働きを期待したものですが、同時に乳酸菌の死菌体でも何らかの効果を人体に与えていることが予想され、プレバイオティックスとしての効果も期待されるようになりました。既に、ラクトバチルス・カゼイ菌(Lactobacillus casei)などでは、抗腫瘍効果やアレルギー抑制効果、コレステロール値低減作用などが認められています。
A ライ麦の効用:世界的な疫学調査結果報告のなかに、我が国と同様に北ヨーロッパ方面では前立腺症の方はいますが、本来、前立腺ガンの人が少ないことが知られています。これは常日頃、植物性エストロゲンであるリグナンを含むライ麦を摂食されているためと言われています。日本人は、イソフラボノイドを多く含む大豆食品を摂取していることから上記と同様な傾向が認められるようです。

【参考文献】
一島英治;「発酵食品への招待」、裳華房(1989)
根田春子;「パンのはなし」、技報堂出版(1989)
大内弘造;「酒と酵母のはなし」、技報堂出版(1997)
吉野精一;「パン「こつ」の科学」、柴田書店(1993)
東京化学同人;「生化学事典」(1984)
野白喜久雄ほか;「改訂醸造学」、講談社(1993)
森治彦;醸協, 96 (9), 584 (2001)
Kline, L., and T. F. Sugihara; Appl. Microbiol., 21, 459 (1971)
小崎道雄;ヘルシスト, 23 (5), 48 (1999)
K. Shida, et al.,; International Archives of Allergy and Immunology, 115, 278 (1998)