視界の隅で指が1本、ぴくりと動いた。
温風を吹きつける暖房は律儀に設定温度23度を保ち続け、乾いて痛む喉と床の上で軋む背骨だけが時間の経過を教えていた。
続いてその手がゆっくりと床を這い、携帯電話を此方に引き寄せる。
窓から射し込む日の光は弱く、照明を切った室内は薄暗かった。だが期待に反して時刻はまだ15時を僅かに回った程度で、最後に目を閉じてから2時間程しか経っていない。ついでに着信もメールも届いてはいなかった。腰の辺りにわだかまる毛布の所為で身体がやや熱く、足で適当にそれをどかす。
日付の感覚がまだ確かならば一昨日の午後から今に至るまで、ほとんどの時間をこうして床に寝転がって過ごしている。浅い眠りに落ちて目を覚まし、また目を閉じての繰り返しだった。
今夜までの時間を潰すのに、寝て待つのが最も手っ取り早いと思ったからだ。起きていたら何をしていても、きっと数時間おきに時計に目を走らせずにはいられなかった。
今度目を覚ますときこそ丁度良い時刻となっているだろう。寝返りを打つとミシリと背が痛んだが、ぬるい空気の中でいくらでも微睡めそうだった。
そら、また眠りが降りてくる。思考が徐々に鈍くなる。
18時の待ち合わせだ。17時に起きて風呂に入ろう。
「──あ。」
思わずがばりと身を起こした。久々に持ち上げた頭がくらくらする。
擦れる背中もひりつく喉も構わない。空腹も特に気にならない。
ただ。
シャンプーが。
シャンプーが切れていた。
真木の髪ってすげえさらさらしてんのな。猫みてえ。
その佐々木の発言の前後を含めた一連の流れはあれ以来、まるでうつくしい夢の記憶のような扱いで俺の脳裏に繰り返し再現されている。
高校3年の芸術祭。テーマは“飛翔”。
いかなる観点から見ても高校3年生が熱中できそうにない代物に、外れくじを引いただけのクラス実行委員。
しかし3年生の秋になるまで碌に口を利いたこともなかった面子は妙に馬が合い、日を追うごとに職務には熱がこもっていった。その事実に自分たちで笑いつつ、クラス中の誰よりも熱心だったに違いない。
そして最終日の表彰式。
出張による校長不在のため、代理の教頭が壇上に上る。
佐々木は俺の隣に立ち、教頭を見つめている。
佳作。審査員賞。俺達のクラスは呼ばれない。
優秀賞。隣のクラスでわっと歓声が上がる。
どちらともなく俺と佐々木は目を合わせる。佐々木は頷き、視線を壇上に戻す。
最優秀賞。
3年7組。
俺達は再び顔を見合わせる。数秒前とは全く異なる意味で。
─代表者は前に出て下さい。
金色の杯と賞状とを受け取った佐々木はたちまちクラスメート達に囲まれる。
胴上げしかねない仲間たちの手をどうにか避けつつ、同じように囲まれた俺を佐々木は見つける。
真木、と俺を呼ぶ。
手を伸ばして俺の腕を掴み、肩を抱いて自分の傍らへと引き寄せる。
─なあ、やったな、真木。
佐々木の手が、俺の髪をくしゃくしゃとかき回す。
俺は咄嗟に下を向き、その笑顔を盗み見てまた大急ぎで下を向く。
─ああ。
全ての力を振り絞り、やっとの思いでそれだけ呟く。
深緑色の透明なボトルを3本、ついでにリッツを一箱とミネラルウォーターのボトルを1本カゴに入れてレジへと進む。
こちらのシャンプーはぁ、割引キャンペーン対象外商品となっておりますがよろしかったですかぁ?
構わない。提げた袋の重みにむしろ安堵しながら─そのシャンプーはときどき在庫を切らしていることがあった─財布をジーンズのポケットに仕舞った。入れ違いに携帯を取り出す。
電話もメールも来ていなかった。
シャワーの湯は浴びたその一瞬だけ火傷するほどに熱かった。身体が冷え切っていたためだ。
そのまま壁に凭れ掛かり、暫く頭から湯を浴びているとじんわり温まってくる。ドアの向こうに耳を澄ませるが、携帯電話は無言のままだ。
─な、真木、年末っていつ実家帰んの。
─とくに決めてない。
─じゃあさ、28日あたり忘年会やんない、二人で。まあいつものように飲むだけなんだけど。
─…忘年会。
─…28日、都合悪かった?
─いや、空いてる。
─昼は彼女と会うんだけど、済んだら連絡入れるから。たぶん18時頃に。いいか。
─かまわないけど。
冬期休暇なんてちっともいいことがない。
佐々木に会えなくなるし、会うまでの時間だってこれほどにひどく持て余す。
電話は鳴らない。
「…いやいや、まさか」
頭に浮かぶひとつの可能性を、声に出して打ち消した。
恋人と友人を秤に掛けるような、そんな真似を佐々木はしない。
真新しいシャンプーのボトルのパッケージを剥がしポンプを開けると、いつもの香りがかすかに漂った。
佐々木の今の恋人はどんな子だったろう。
とろりとしたその液体を掌に受けながら、今頃彼の隣にいるであろうその女の子の記憶を手繰ってみる。しかしこの冬から佐々木と付き合い始めた彼女と顔を合わせたのはまだ一、二度ほどで、かろうじて思い出せるのは華奢な手指とひらひらしたスカートの裾くらいのものだった。かと言ってその前の女の子なら覚えているかというと、それはもっと思い出せない。佐々木から離れていった途端、俺は彼女たちの顔をどんどん忘れていってしまう。
同じ学部の子だろうか。いくつで、髪はどのくらいの長さだったろう。頭のなかで彼女の顔は曖昧なまま、彼とふたり並んだイメージだけが静かに膨らんでいく。
今日はどんな話をしたのだろう。
まだ冷たいその液体を髪に滑らせ、ゆっくりと撫でる。
佐々木は彼女をもう──抱いたのだろうか。
これから顔を合わせる男についてこれ以上想像を進めるのは駄目だと、もう一人の自分が言う。しかしその静止は我ながら随分とおざなりで形式じみたもので、更にその自覚があるということが問題といえば一番の問題だった。
──猫ッ毛って言うもんな、柔らかくてさ、ほら、
髪を梳くかたい指の感触を脳は実に手際良く再生し、手は半ば無意識に下肢へと伸びる。既に種火の点いた身体を頭から打つ湯が熱かった。
「………は…」
ひらひらとしたスカートの裾が、ステージの隅のどこかで踊る。
「──…っぁ、……んっ」
彼にとって、恋人と友人はきっと別々のドアの鍵だ。互いに代え難く、どちらも等しく重要な。
そして今のところ、後者の位置には俺が立ってられてる筈なんだ。
なあ、そうだろう?
額を押し付けた鏡は立ち込める湯気で曇っていたが、昂ぶる感覚を堪えきれずに目を瞑った。
髪を絡めたその指の腹が、そっと頭皮を掠めて離れる。擦り切れるほどに反復したイメージ。
「──……ささき──」
ああなんて始末に負えない。お前相手なら羞恥心さえ、どうしようもなく気持ちいい。
水音の向こうで電子音が鳴る。
その音を合図に、スカートはステージを降りてどこかへ消えてしまう。
残ったのは懐かしい彼の手のみ。
──だから言ったろう?
シャワーの栓を捻りつつ誰にともなく呟くと、俺は扉の外へと踏み出した。
*おまけ
Return