シンクに落ちる水音で目が覚めた。
天井とそこに取り付けられた照明。まず目に映ったそれは、見慣れた自分の部屋のものだ。
ゆっくりと慎重に視線を移す。天井から壁、壁から窓、箪笥、本棚。ちゃぶ台に冷蔵庫。
夜の薄暗闇のなかであいまいなそれらの輪郭を追いながらぼんやりとした頭で、それでもまだ俺は何かを疑う。そこに何かの罠はないか。あのひどい不安と心細さを、こうもあっけなく終わりにできるものなのか。
目を閉じればまたすぐにでも引き戻されてしまいそうなほどの生々しさが身体に残る。天井に目を戻し、じっと息をひそめてそこを見つめ続けた。見つめながら記憶をたどるが、感覚とは裏腹にそちらは指の間から砂が零れるようにどんどん失われていくのが分かった。
いったい自分はどこで何をしてあんな思いをしたのだろう。思い出せそうで思い出せない。とにかく暗くて広くて先が見えない、ひどく寂しいところだった。
どこかの道路を派手な排気音をたてて車が通り過ぎる。それを聞いてようやく、俺は布団から身を起こすことができた。頭を振り、大きく一度深呼吸をする。
カーテンを開けたままの窓の向こうの空には、明るい半月がぽかりと浮かんでいた。
枕もとの携帯を開く。0時11分。
なにかひどく、いやな夢をみたのだ。
しらじらとした照明の光に照らされたそこはもちろん勝手知ったる自分の部屋で、冷蔵庫に残っていた緑茶のペットボトルを飲み干し完全に覚醒した俺は今、自分がずいぶんと空腹であることに気がついた。
バイト仲間から急な代打を頼まれ、部活が終わったその足で深夜時間帯プラス早朝時間帯の約12時間連続勤務をこなしそのまま大学に戻って講義を受け(こういう日に限って代返のきかないものばかりだ)、帰宅するとシャワーだけ浴びて泥のように眠ったらこの有様である。せめて安眠ぐらい得てもバチは当たらないだろうと思うのだが。
空のペットボトルをゴミ箱に捨てて玄関へと進みかけ、ふと思い直して床に落ちていたパーカーを羽織る。裸足の足先にひやりと床が冷たい。10月に入ったとたん朝晩は特に冷え込むようになった。ドアを開けると案の定、夜の冷気が頬をなでる。
多少の食糧の備蓄がないわけではないが、人の顔を見たい気分だった。
何を食べるか考えながら歩いているうちについでに洗剤とティッシュを切らしかけていることに気づき、俺は進路を最寄りのコンビニ(つまり俺のバイト先である)から、近所の24時間営業のスーパーに変更した。街灯だけが青く照らす住宅地には人っこひとりなく、それぞれの家に植えられた庭木がときどき風にざわめくばかりだ。乾いた音を立ててアスファルトを踏む俺の右斜め後ろあたりを月がついてくる。
「よし。おでん、だな」
大きなレトリバーがいる家の(夜はあの犬も室内で休むのだろうか)風見鶏つきの郵便受けを横目に通り過ぎながら誰にともなく決断を呟き、いつもの角を右に曲がった。そこには件のスーパーが、
「あれ?」
……ない。
代わりにそこにそびえていたのは工事現場のパネルの囲いで、ヘルメットを被ったウサギの隣に改装工事中、と書かれた黄緑色のビラが貼られていた。パネルは是が非でもその内部を覗かせまいとするかのように闇雲に高く伸び、その天辺を見上げれば、雲の流れが速いらしく月がどんどん空を上昇していくような錯覚を覚えた。建物の隣の駐車場は封鎖され、がらんとしたそのさまが更に廃墟じみた趣を加えている。
近くのコンビニまで戻るか…それにしてもこのウサギどうやってヘルメット被ってんだよ。
素朴な疑問を抱えつつぼんやりと逡巡する俺の足元を、ピンクのリボンをつけた茶色い猫が悠然と通り過ぎていく。屈んで撫でようとしたが、こちらをチラリと眺めるとそのむっちりとした体型に似合わぬ素早さで走り去って行ってしまった。猫よ、ここは空気を読んでじゃれついてほしかった。
屈んだ姿勢のまましばらく猫が消えていった家の茂みを眺めていると、音もなく一陣の風が吹いた。夜気に混じってどこからかキンモクセイの匂いが届く。右手をポケットに戻して俺はよいしょ、と腰を上げた。
住宅地を抜け通りに出て、赤信号の横断歩道を(車一台通らないのだ)渡る。
その先の道を少し行けば、大学の裏門はすぐそこだった。
もうひとつ先のコンビニに行くことにしたのは単におでんの好みの問題からで、大学構内を突っ切れば10分程度で着くことができる。研究棟にはまだ人が残っているのだろう、灯りのついたいくつかの窓を眺めてなんとなくほっとしながら、ふとスズキのことを思い出した。
昨日、講義棟の入り口でたぶん2週間ぶりくらいに顔を合わせた。同じ学部だから必修科目はもちろん、スズキは興味のある講義には履修科目でなくともやたらと聴講しに来るので結局俺たちはほぼ毎日大学で顔を合わせているのだが、どうやらまた何かの研究に没頭し始めたらしくここ最近それがパッタリとなくなっていたのだ。そもそも進級に必要な単位数はあらかた夏休み前に取ってしまったらしく、必修科目以外は特に講義に出席する必要もないらしい。
午前中の講義が終わり、学食や生協や駐輪場目指して出口へとごった返すなか偶然すれ違ったスズキは俺を見てちょっと驚いたように目を見開いたあとでああカジ、と言って笑った。その顔が少し疲れているように見えたので、これはやはり予想に違わず家にこもっていたなと思った。すれ違いきるまでの少しのあいだスズキは何か言葉を続けるように口を開きかけたが、結局「じゃあまた」とだけ軽く手を振りあとは人波に流されるかたちで別れた。おそらく今時分も眠らずに作業を続けているに違いない。
敷地内に茂る木々が夜空に黒々とした枝葉をざわめかせる。無人の駐輪場を横切りながら、そういえばスズキが眠っているところを見たことがないということに俺は気づいた。互いの部屋に泊まることはあるが、たいていスズキは俺よりも遅く寝て早く起きる。一度夜更けに電話したときはさすがに寝ていたようだが、実際にその姿を目にしたことはない。
まさか不眠不休ということはなかろうが、そうと断言できないところがスズキの恐ろしいところだよな…などと考えつつ、研究棟の裏手にさしかかった。
時折スプリングの壊れたソファやら古くなったテレビやらが雨ざらしになっている(そしていつの間にか持ち去られている)その芝生スペースには、いったい何の実験に使われたのかテトラポッドによく似た──というかテトラポッドにしか見えない──模型が山と積まれている。裏門から研究棟へはゆるやかな上り坂になっており、俺が立っている場所から見上げると向こうの景色がテトラポッドに隠されて、そこだけ眺めればちょうど本物の海を模したような按配に見えなくもない。
───海。
そのとき突然夢の内容を思い出した。暗い夜の海の水面にひとりぽかりと漂いながら、月も星もない真っ暗な空を眺めている夢だった。
俺は歩みを止め、テトラポッドを見つめる。
夢のなかの俺はそこに誰ひとりいないこと、これから先も誰とも会うことなくずっと海を漂い続けなければならないことを知っていた。自分はもう既に取り返しのつかない場所まで来てしまったんだという確信めいた予感がひしひしと胸を満たしていた。
「…疲れと空腹がよくなかったかな。」
ただおおかたの夢がそうであるように、今となってはあの覚醒直後のリアルな手応えは失われ、何がどうしてあんなに不安に駆られたのかいまいち実感がわかない。
さっさとおでん買って食って寝よう。草の匂いのする冷えた空気を吸い込むと、俺は正門を目指した。
門まであと数歩というところで、こちらへと歩いてくる人影を見つける。
「…スズキじゃん。」
「……カジ?」
ジーンズにジャケットを羽織ったスズキは、正門脇の街灯の下で眩しそうに眼をしばたいた。そして俺が次の言葉を発する前に両手を伸ばし、ぎゅうと抱きつかれる。
「なにお前、大学に用事?」
なんとなく既に抱きつかれ慣れた感のある俺は、それもどうかとは思うがとりあえず会話を続けた。抱きついた姿勢のままでスズキも答える。
「カジのとこに行くところだった」
「俺の?」
「カジが足りない。全然足りてない」
昨日顔見たらもうだめだった、と呟く背中をぽんぽんとたたく。その肩口に、オレンジ色の小さな花がついている。キンモクセイだ。
「寝てるようなら、外から部屋だけ眺めて引き返すつもりだったけど」
その花を取ってやり、俺は空を見上げた。誰かが迷いなくパカリと割ったような潔い半月である。抱き締める腕には、ますます力がこもる。
「わかった。俺はこれからおでんを買って、お前の部屋でそれを食う。それでいいな?」
ある程度予想はしていたが、それをはるか上回る混沌がスズキの部屋を支配していた。床に散らばった図面をまたぎつつ、巨大な金属板やら柱やらこまごました部品を避けつつ、そしてなぜかそれらとともに転がっているオレンジ色の巨大なカボチャを発見しハロウィンか、ハロウィンなのかと激しい疑問に駆られつつもあえてそれを追及することはせず俺は口を閉ざした。
机に向かうスズキのこちらに向けられた背中をときどき眺めながら俺は大根と玉子とはんぺん、こんにゃく、つくねを食べ、勝手にテレビをつけてアメリカ人たちが「ヒュー!こいつはすごいぜ!」と絶賛するミキサーやら掃除機やらの深夜通販番組を小一時間ほど見てテレビを消し、歯を磨いて(残念なことにスズキ宅にはなぜか俺用の歯ブラシが常備されている)眠った。ベッドは例の得体の知れないパーツたちに占拠されており不用意に触るのもためらわれたので、勝手知ったる押入れを開けて客用の毛布を出し、かろうじて空いたスペースに横になりそれにくるまる。パソコンのキーを打つぱたぱたという音を聴いているうちに、日中熟睡できなかったせいかすぐに強い眠気に襲われた。
次に気がついたのはそれから3時間後で、エアコンのタイマーが切れたらしくブン、という微かな音を立てて温風がやんだ。毛布を引き上げて肩まで覆い、うっすらと目を開ける。いつの間にか部屋の照明は消され、更に毛布が2枚追加されていた。
そして目の前には、こちらを向いて眠るスズキの寝顔がある。
電池が切れたような、という表現ピッタリに人形めいた風情だ。夜目に白い顔には血の気がなく、耳を澄ませても寝息も聞こえない。呼吸に合わせてゆっくり身体が上下するのがかろうじて分かる程度だ。
手を伸ばして、その目に落ちかかる前髪をよけてやった。
やっぱり睫毛長えな、と思いつつスズキのはみ出た肩にも毛布をかけてやる。窓の向こうの半月はだいぶ傾いているが、まだ空は夜のままだ。外の風もやんだらしくあたりはひどくしんとしていた。
寝場所を取り囲むように積み重なるダンボール箱や板や柱に、今夜は特に地震が起きないことを祈る。
寝返りを打つスペースもないので、仕方なくもう少し身を寄せた。
下がっていく部屋の温度のなかで毛布だけが暖かく、今度こそ俺は本物の深い眠りに落ちる。
夢さえも見なかった。
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→数時間後