傾けたペットボトルからトプリと流れ込んでくる水をかろうじて冷たく感じるのは、既になまぬるい筈のそれよりも汗だくのこの身体がはるかに熱いからだ。
喉から食道へと伝い落ちていくその感覚を追いながら俺はグラウンドの真ん中あたりまで歩き、赤い地面に腰を下ろした。早朝6時、グラウンドを囲む広い観客席も無人なら、更にその後方に茂る木立もまだ夜からの冷気を残したままそよとも音をたてずにしんとしている。
アパートから記念公園──通称であり、何を記念しているのかは知らない──へ、記念公園の入り口から木々の間を縫ってグラウンドへ、最後にトラックを5周。いつものルートを走り終えると、ようやく日常のリズムが戻ってきた感触があった。
夏の大会参加で4日間、実質走っていないのはついでに観光した5日目だけだがそれでもやはり足は少し重くなっていて、まとわりつくようなそれが走るうちに徐々に外れていく感覚は悪くない。
俺は残りのミネラルウォーターを飲み干し、幾分汗の引いた身体で立ち上がった。
地面に落ちる俺の影はまだ淡くぼやけているが、あと1時間もすればくっきりと色濃く灼きつくことだろう。どこかで蝉が鳴き始める。空は薄青く、雲ひとつない。
今日も暑くなりそうだった。
俺がその食い倒れ人形とラップの掛けられた茄子の煮びたしを自宅のテーブルに発見したのは昨日の夜のことで、それらの出所を推察することは不本意ながら既にクイズの態さえなしてはいない。一つ、「粗熱が取れたら茄子は冷蔵庫に。あと、見せたいものがあるので明日にでも寄ってほしい。大会お疲れさま」と書き遺されたメモの筆跡を俺はよく知っている。二つ、はるばるアメリカくんだりまで出かけた土産がこの紅白だんだら模様の人形という何か突き抜けてしまった感のあるセンス。三つ、俺の母親──留守中に料理の作り置きをしていくことが可能な人間を奴以外に強いて挙げるなら──の料理のレパートリーに俺が知る限り茄子の煮びたしは存在しない。たとえそこに「そもそもこの部屋の鍵を奴に渡していない」という覆しがたい大前提が横たわっていたとしても、だ。
シャワーを浴び、とりあえず冷蔵庫から昨夜の煮びたしを取り出しつつ「仕方ねえから夕方あたりに行ってみるかな…」とエアコンのスイッチを入れる。…いや、入れようとした。
「──……あれ?」
冷風が来ない。というか、電源が入らない。
じわりと1.5℃ほど上がった体感温度に嫌な汗を滲ませつつコンセントの挿入具合を確かめもう一度ボタンを押す。反応はない。
「…マジかよ…」
最後に使ったのは6日前。あのときは問題なく存分に冷風を届けてくれていたというのに。ああもしやと藁にもすがる思いでリモコンの電池を新しいものに換えてみたが、何度ボタンを押してみても待ち焦がれる電子音は聞こえてこない。
蝉の声がにわかにうるさく聞こえだした。テレビなんかつけなくても、今朝のお天気お姉さんが何を言うかくらい分かる。賭けてもいい。
何度か無駄な試みを繰り返した後、俺はテーブルの足元に慎み深くそっと控える扇風機に目を落とした。
──駄目だ。ごめん、多分今日の俺はお前とじゃ戦えない。
一応工学部の学生だったなどという自覚は、日当たりだけは無駄にいいこの部屋のなかで持ち主と同様に活力を奪われてしまったに違いない。
窓の外から見える街路樹が、太陽光を反射してその葉をふてぶてしいまでにぎらぎらと光らせている。あそこを歩いたらまた汗をかくことになりそうだなと思った。
「実に2週間ぶりだなカジッ!!」
玄関先で目を輝かせたスズキはそのまま俺に抱きつこうとしたが広げかけた腕をはたと止め、水に濡れた我が身(髪からは雫が落ちているしTシャツもところどころが濡れて肌に貼りついている)を見下ろして残念そうにその腕も下ろした。
「茄子とお土産をどうも。…ていうかお前何してたの。水浴び?」
でも服着たままだしな。
「まあ見てくれ」
そしてスズキは何故か俺を玄関入ってすぐの左側のドア、要するに浴室に引っ張り込んだ。
「俺も一昨日帰国したんだけど、なんか日本の方が暑く感じるな。湿度の問題なのかな…あ、そんなことよりどうだった?大会」
「や、大学単位では4位、個人では……っておいスズキ、」
「何だ?…そこ滑りやすいから気をつけてな。あと、昨日はお前帰ってくるまで待ってるつもりだったんだけど、急にアイディアが浮かんで」
茄子ちゃんと冷蔵庫に入れたか?と呑気に問う背中の向こうに広がるのは、
「…何だよこれ」
「何って、」
いや知ってるよ俺だって、確か中学だか高校だかの頃に授業で作ったことあるよこれ、ここまで大掛かりじゃなかったけどな。
「…なんで風呂場で燃料電池?」
「まだ実験段階だからな」
水を張ったバスタブに、ポチャンと涼しげな音を立てて雫が落ちる。水中からはこれもまた涼しげなステンレスのラックが屹立し、元はスズキの部屋で雑誌だかCDだかを乗せていた筈のそれは今何故かノスタルジックかつ巨大なH字管をぶら下げ、直流電源装置と電子レンジ大の燃料電池──それが発電している証拠に、その両極から伸びた電線の先ではこれもおそらくスズキの自作であろう小型のファンが回転している──を積んでいた。スズキは白い風呂椅子に腰掛け、俺にバスタブの縁に座るよう手振りで促す。いや落ち着かねえよこんな巨大オブジェが背後にあったら。
「今回の作品は全体に突発的なものなんだが結構気に入ってるんだ。帰りの飛行機の中でふとイメージが浮かんでさ、手持ちの材料は間に合わせだけどとりあえず原理だけでも形にしてみるかと思って。動力に燃料電池使ってみようか、ていうのも昨日茄子揚げながら思いついて」
ラックの最上段に置かれた燃料電池からは尻尾のようなチューブが生え(おそらく台所のガスチューブと同じものだ)、水滴はそこから断続的にバスタブへと落ちる。
「実用段階では水素の供給源をどうするか…とりあえず今は間に合わせで水を電気分解してるんだが。発電の際に生じる水は気化させるべきかな。内蔵したカートリッジに貯留させて再利用という手もあるが小型化という点では不利だ。どう思う?カジ」
「どう思うってお前…どうやったら間に合わせの材料で燃料電池が作れんの?」
そしてなんで普通にH字管だの直流電源だの化学実験教室的なツールが常備されてるんだよお前の部屋に。
「ああ、この電池は前にちょっと興味が湧いて作り置きしてたのがあったから。」
でも長い間放っておいたせいかいろいろ不具合があってこの有様だ、と水を吸って重そうなTシャツの端を摘んでスズキはおかしそうにふふ、と笑った。ふふじゃねえよそして何だよ作り置きってお母さんの特製ジャムみたいな表現…
「それで動力はこれを改良・小型化して使うとして、本体はこっちだ。昨日見せるつもりで持って行ったんだが…」
言いながらスズキはラックの棚(2段目)からやや大きめのプラスチックケースを取り出し、ぱかりとそのフタを開け中を見せる。
「……これって、」
そこに鎮座していたのはときどき深夜の通販番組で見かける、しかし実生活では一度も見かけたことのないあの道具だった。
「燃料電池式ゴーゴーガジェットハンド(リモートセンサー機能付き)だ!」
…ああ、本棚の最上段にある百科事典取りたいときとか、天窓開けるときとか、壁と洗濯機の間に落ちたメガネ拾うときとか実ったマンゴーもぐときとかに便利だよなマジックハンド…
「…いや、」
おかしいだろ。そう言おうと思ったが、すんでのところで俺は堪えた。2週間ぶりでペースが狂いがちだがとにかく───突っ込んだら負けだ。
「万が一この道具を相手に奪われてしまったときに役に立つと思うんだよな、リモート機能。あとは従来通りの握る・開く動作以外にももうちょっと動きのバリエーションを加えてみた。ペンを握るとかピアノ弾くとか」
ややもするとうっかり口を開きそうになる衝動を抑える俺に当然気づかないスズキは、風呂椅子に腰かけたまま突然俺の右手を引いた。ふむ、と思案気に呟きそのまま無言で裏返したり握手するように握ってみたりすること数十秒の後、手を取ったまま今度はおもむろにラックの棚(3段目)にもう片方の手を伸ばしてヘアワックスのような容器を取り出すと、「ちょっと手、貸してくれな?」とこちらの返事も待たずにそこから白いペーストを掬い出して俺の手に塗りつけた。
「冷た…何、これ」
「液状紙粘土に工夫を少々」
ガジェットハンドの手の部分、カジの手の模型にしたいんだよ。そう続けて、俺の右手をスズキは丹念にそのペーストで覆っていく。ひやりとした、濡れたような感覚が掌や指の間を撫でていくのはくすぐったくて妙に居心地が悪い。初めは少量をごく薄く手首から指先へとまんべんなくペーストを伸ばし、少しずつ量を増しながら辛抱強く同じ作業を繰り返す。掌のくぼみや指の付け根に溜まるそれを均一な厚さにしようと、スズキが両手の親指で円を描くように掌を撫でた。
「……ッくすぐ、ったいんだけど」
右手はガッチリと固定され、バスタブの縁に腰かけた俺にはどこにも逃げる場所がない。不自由な姿勢で身じろぐと、背中に水の雫が落ちた。
「悪い、十分で終わるから。」
粘土は速乾性らしく、初めに塗り始めた手の甲あたりの部分はちょうど液状の蝋が固まるような感触を残して白色から透明になりかけている。ひどく真剣な表情で作業を続けるスズキに協力してやりたいとは思うが──冷静に考えると協力してやらねばならない理由はひとつもないのだが──、このむず痒いような、くすぐったいような感覚は一度意識してしまうとどうにも耐えがたい。
何か他のことを考えるために俺は会話をつなげた。
「ところであのお土産、アメリカなのにどうしてアレなんだ?」
「…ああ、あの人形か?」、顔は上げないままスズキが答える。「あれはカリフォルニアのマスコットのジョニー君だ。金髪だし、眼も青いだろ?」
知らねえよそんなの。そこまでよく見てねえよ…
「あの衣装もリバーシブルになっててな、裏返すと紺地に星模様だ。スターズアンドストライプス、アメリカ国旗を表してるらしい。でもまあなんといっても秀逸なのはヘソの横にあるあの仕掛けだな。カジもアレには驚いただろ?」
ああすごく…と答えながらあの人形には二度と手を触れるまいと俺は決意した。
沈黙が下りた浴室のなかに、チューブから滴る水の雫がポチャリ、ポチャリと水面を叩く音だけが響く。ステンレスラック1段目から届くファンの風とバスタブにはった水のためか、この空間は割に涼しい。
手持ち無沙汰な左手で、俯いたスズキの額に貼りついた前髪を剥がして寄せてやった。
「なにお前、また寝てないの。」
髪を除けた目元にはうっすらとクマができている。発明だか研究だかにつきっきりのときによく見る顔だ。
「リモートコントロール機能が昨日からどうもおかしくて、その原因が分からなくてな…直接操作には何の問題もないんだが」
どうしても今日カジが来るまでに完成させたくて。手首から指先まで透明な膜にまんべんなく覆われた俺の手を様々な角度から点検し、どうやら納得がいったらしいスズキはようやくそこで顔を上げてにっこり笑った。その膜を傷つけることのないよう、両手をそっと俺の右手に添えたまま。
そして俺は、今度は3℃ほど上昇した体感温度を自覚することになる。背後で落ちる水滴が、今度は左肩にあたった。
…今頃気づいたがこの状況。いやアパートの風呂場で巨大な燃料電池が稼働しているということ自体既に充分珍妙なのだがそれは置いておくにしても──何かひどく、ひどくまずくはないか?
「──…クーラー!なあスズキ、ここ暑くないか?この手、乾くまでどこにも触らなければいいんだろ。俺のとこエアコン壊れちゃったみたいでさ。あっちの部屋に行ってエアコンつけないか…──あ、リモコンこれか」
返事を待たずに立ち上がり、床に転がっていたリモコンを左手で取り上げてリビングのドアを開けスイッチを入れた。見慣れたリモコンだと思ったら俺の部屋にあるものと同じ型だ。スズキ宅のエアコンは健在なのに何故うちのだけが。ピ、という電子音に引き続き、久しぶりの冷風が吹き下りてくる。
「…ついたのか?」
「え?」
俺は背後から発せられた驚いたようなスズキの声に振り向いた。
「そのリモコンでこのエアコンが…どうしてつくんだ?」
浴室から顔を覗かせたスズキは、洗った自分の両手をタオルで拭きながら信じられないようなものを見るかのように稼働中のエアコンを凝視し、俺の手に握られたリモコンを見やり、更にもう一度エアコンを見た。つられて俺もリモコンに目を落としたが、やはり何の変哲もないエアコンのリモコンだ。
「だってこのリモコン、エアコンのだろう?俺のとこと同じ型だ」
俺がそう言うと、突然スズキは「…ああ、」と力なく一声あげて天を仰ぎ、持っていたタオルをぽんと放りあげた。
「カジ、悪かった…俺が間違えた」
何を、と問おうとして俺も思い至ることがあった。俺の部屋の壊れたエアコン。リモコンの効かないスズキの発明品。スズキは眉根を寄せ、ずるずると浴室のドアにもたれかかった。
「…もしかして、その思いつきのリモコンシステムにエアコンのリモコンを利用した、とか?」
「…そう」
ドアの向こうではまだ水音が聞こえ続けている。
「それで昨夜俺の部屋に来たとき、このマジックハンドと一緒にリモコンも持参した、とかそういうことか?」
「その通りだ…」
ガジェットハンドと訂正する気力もないらしい。大きなため息をひとつついたスズキは、ぐっと反動をつけて立ち上がった。
「ほんとにごめんな…今からすぐにでも、」
風の勢いが強いので、俺は設定温度を1度上げた。
「や、別にいいよ。手、こんなだし、外暑いし。夕方くらいになったら出ようぜ。それまで俺ここでグダグダするつもりだけど。お前も今からちょっと寝たら?」
なんだか喉が渇いていた。今朝公園で飲んだヴィッテルを思い出す。今度はちゃんと、冷たいのが飲みたい。俺は勝手知ったる冷蔵庫を勝手に開ける。
そうだな、と答えたスズキはそのまま台所へ進み、鍋に水を入れ火にかけた。
「眠いけどその前に腹減ったかも。素麺、カジも食うよな?」
浴室の燃料電池はあのままずっと働き続けるのだろうか。水を分解して生まれた水素がファンの羽を回し、酸素と結合してまた水に戻る。スズキが電源を切らない限り、おそらく永久に続く循環だ。
「食う」と俺は答えて、そのまま湯が沸くまでスズキと例の水音を聞くとはなしに聞いていた。
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