以前の拍手お礼作文「大雨と人工衛星」からちょっとつながってます



 朝の鳥たちというものは夜が薄れはじめる気配を不思議なほどに心得ていて、暗闇の濃度が少しでも失われようものならどういった意図があるものか突如としてまるで遠慮のないさえずりを始める。
 それは俺が暮らすアパート(木造・2階建て)の屋根上の鳥たちも同じことで、部屋がその2階であることも手伝ってかよほど熟睡でもしていない限り夜明けを迎えた時点で覚醒への軽いジャブをいただくことになる。寝起きに関して目覚まし時計ひとつではいささか心許ない俺のような人間にとっては、考えようによってはよい環境といえるかもしれない。大学もバイトもない休日の朝などは、その声を夢うつつに聞きながら「ああ今日はこのまま寝てていいんだ…」と二度寝の幸せに浸ることもできる。
 だが、土曜日という今日この日の朝に限って彼らは珍しく控えめだった。
 中途半端に窓の3分の1ほどを覆ったカーテンを開ければ空は明るかったが一面を薄い雲が覆っていた。部屋に漂う空気もわずかに湿って、雨の日のときの匂いがする。ひょっとすると鳥たちの情報伝達量は天候に左右されるのだろうか。
 静かな朝だった。
 そしてその朝鳥たちに代わって俺を起こしたのは上機嫌なスズキからの電話だった。

 呼び出されたのは近所のベーカリーで、2階はそこのパンを供するコーヒーショップになっている。朝食をとる目的で俺もスズキもときどきここを訪れていた。
寝巻きから部屋着に着替え(着替えても特に変わりばえしないのだが気持ちの問題だと俺は思う)、ソファの背に掛けていたジャンパーをその上から羽織った実に適当な格好で玄関を出た。午前7時の住宅街などほとんど人も歩いていないだろう。
 濡れたアスファルトと緑の匂いが強い。しばらく歩くと顔や衣服がしっとりと濡れて、どうやら霧雨が降っているようだと知れたが空を見上げてもその滴を確認することはできなかった。それほどかすかな雨なのだ。
 たっぷり眠ったあとのこの早朝散歩は正直悪くなかった。スズキからの呼び出しというのが引っかかるところだが、いくら奴でも公共の場でそれほどとっぱずれた真似はするまい。歩きながら俺はひとつ伸びをし、小さくうなずいた。
 ホットサンド(ツナとサルサソース)かベーグルサンド(サーモンとクリームチーズ)かでしばし悩み、結局ホットサンドを選んでカフェオレとともにそれをかじっていると、間もなくスズキが現れた。コーヒーとベーグルサンドを載せたプレートを片手にしたスズキは窓際のテーブルにいた俺を見つけるとにっこり─朝からまた無駄にキラキラと─笑い、なぜか遠く離れた席に着いた。
 …またなにか始まったよ。
 何のつもりかと奴を見つめていると、向こうも笑顔を浮かべたままその口に人差し指を当てた。見てろということらしい。そしてコーヒーの入った紙コップの蓋を外して口元に運ぶ。
 すると、
「おはようカジ」
 奇妙なことに俺のすぐそばからスズキの声が聞こえてきた。
 ええ?と思わず声をあげてしまったが、スズキはにこにことコーヒーを飲んでいるだけで何かしている様子はない。俺はとりあえず自分の衣服を探ってみた。これまでの学習から、自分の気づかぬうちに妙な装置でも取り付けられているのではないかと思ったからだ。ジャンパーの裏地、ジャージのポケット、スニーカーの底。1ヶ月前コートの第一ボタンを留めた途端ものすごい勢いでそこから白煙が噴出したときのことを思い出し俺は胸が苦しくなった。
「違うぞカジ、そっちじゃない」
「あぁ?」
「そのコップ」
「……コップ?」
 スズキその口元の紙コップを人差し指で軽くとんとんと叩いた。俺も自分のコップを覗き込んだが、特に中身に異常はなさそうだった。ただのカフェオレだ──…いや。
 よくよく見ると茶色の液面の中心ではちょうど雨の日の水たまりのように、その中心から円状の小さなさざ波が生まれ周囲へと広がっては消えていた。
 なにかの振動を伝えているかのように。
 …振動?
 ……まさか。
 波紋がひときわ大きくなる。
「その名も糸ナシ糸電話だ!」
 他に客がいないのがせめてもの救いだった。

「ただの無線機と何が違うんだ、もしくは携帯電話でこと足りるじゃないか──そう思うかもしれないな」
 うきうきと、勝手にスズキの説明は続く。なあ俺帰ってもいいか。
「ところがそうじゃない。この形状なら今みたいにして、カフェで一服を装いつつ別の場所にいる仲間に状況報告することができる。口元も隠れて実に有効だ。とりあえず試作品としてこの店の紙コップの他にド●ール、スターバ●クスバージョンも作ってみた。…そして更に、」
 ていうか俺のコップにどうやって。まさか店員もグルなのか。
「通常の紙コップの役目─即ちコーヒーを入れて飲むことができる!いや今まで気づかなかったが糸電話というものは極秘任務の遂行に欠くべからざるこれほどまでに重要な道具だったわけだ」
 いねえし。そんな目的のために糸電話作った人いねえし。
「脇にあるここのボタンを浅く押すと送話モード、深く押すと受話モードに切り替わる。ただこの道具の主たる役割は人目がある場所での極秘報告のカモフラージュであるわけだから、報告者は専ら送話モードを使うことになるだろうな。だってまさか店の中で自分のコップに耳をあてる客もいないだろう?」
 自分で言った内容にスズキはふふっと笑った。お前にとっての笑いどころはそこなのかスズキ。
「…というわけで店を出たら早速お互い使ってみようぜ!なァに使い方は簡単だからすぐ覚えるぞッ」
 そこでプツンと通信が途絶え、スズキ本体がこちらのテーブルに寄ってくるのが足音で─もう目をやる気力もなかったのだ─分かった。いつ新たな客が階上へ昇ってくるかと気が気でなかった俺はとりあえずほっとする。
「確かカジ、今日はバイトも入れてなかっただろ?」
「………──あのさあスズキ……」
「うん?」
 まずどこからつっこめば俺は救われるんだろう。スズキは毎度のように途方に暮れた俺の正面の椅子に腰掛けた。ていうか今更だけどカナリアンイエローのスプリングコートてスズキ。
「ええとな、なんていうか」
 しかも妙にそれがさまになっているのもどうなんだ。
「発想自体はまあ…すごく面白いとは思うんだけど」
 スズキは身に着けるものには無頓着で、箪笥の中から手についたものを適当に着ている割に人目を惹く。こいつが着ているとどこか一風変わった特別な着こなしに見えるのだ。そしてどうしてか突飛な色まで妙によく似合う。
 俺も服飾品にさほど頓着するタチではないが、もう随分と服など買いに行っていないことを思い出した。
 ─…そういえばこの部屋着も長いこと着てるな。
「俺も週末はいろいろやりたいこともあるし、ゆっくり休んだりもしたいし…」
 そこまで続けて初めて、目の前のスズキがひどく静かなことに気がついた。いつもならこの時点で一気にたたみかけるようなトンデモ論理が大々的に展開されている筈である。
「…スズキ?」
 先ほどまでの躁気味な空気はどこに行ったのか、じっと俯いて手元のベーグルサンドにも手を付けていない。俺がその顔を覗き込むとスズキは突然ガタン!と音を立てて椅子から立ち上がった。
「ごめん、俺、急用、思い出した。またあとで連絡する。これ、俺の食べといてくれて構わないから」
「急用?──てかお前、顔赤くない?」
「え。あ。赤いか?…とにかく、俺行かないと。そのコップは持っててくれ。じゃ」
 何故か耳まで赤く染めたスズキは、不自然に目を逸らしたままカフェオレの残った俺のコップは置き去りに、空になった自分のコップだけ持って大急ぎでフロアを横切り、階下へ駆け下りた。
「じゃって…なんだよそれ」
 店の扉に取り付けられた数個のベルが互いにぶつかり合いながら鳴る音がして、早足で遠ざかっていく黄色い背中が窓から見える。
「……なんなんだよ結局……」
 もしかしてこれも何かの計画の一部かとも思い、そのまま20分ほど待ってみたが奴が戻ってくる気配はなかった。
 ──あんなスズキは見たことがない。よほど火急の用事だったのだろうか。
 外を降る雨はほんの少し強さを増して、糸のようなその細い筋が静かに地面を濡らしている。
 俺は目の前に手付かずで残されたベーグルサンドとともに途方に暮れた。


 スズキから再び連絡が入ったのはそれから1時間ほど経ったあとである。
 家に帰った俺は布団を片付け、かといって他にとくにすることもなくソファに寝そべったままサアアという静かな雨音を聞くとはなしに聞いていた。
「傘、持ってんのかな。」
 置いていった携帯に連絡はきておらず、念のためこちらからも電話をかけてみたが出なかった。奴も携帯を家に置いたまま、店を出たあとあのままどこかへ出かけたのかもしれない。ベーグルはとりあえず持ち帰ってきた。ついでに例の紙コップも。
 手に取り観察してみるとその側面にはごく小さなボタンが取り付けられていた。コップ本体と同じ材質でできたペン先ほどの突起なので、コップを持ってしまうと傍目からはまるで分からない。確かにコーヒーを飲んでいるようにしか見えないだろう。
 それにしてもなんでまあ毎回毎回こうもアレなものを拵えてくるんだろうか。
 まあ害は少ない部類の代物だが、なにかいろいろと能力の無駄遣いをしている気がしてならない。溜息をつきながらそれを押すとカチリとへこみ、手の中のコップが三度振動した。スイッチが入ったということだろうか。
 ガサガサと布が擦れ合うような音と、今ここで聞いているのとおそらく同じ雨音がかすかだがはっきりと──携帯よりも随分とクリアだ──耳に届く。すると間もなくして、
『…カジ?』
 思いがけず返答があった。ボタン部分が緑色に点滅する。
「ああこうやって使うのかこれ。聞こえてるか、そっち」
 どうやらスズキは屋外にいるらしい。俺の方は自宅の室内で人目を憚る必要もないのだがやはりどうにも複雑な心境でコップに耳をあててみると、雨音の他にも遠くで犬が吠える声や、部活かなにかの練習だろう、集団で走る規則正しい足音と掛け声が聞こえてきた。
 俺は多分その場所に心当たりがあった。
「もしかしてそこ、記念公園か?」
 大学の近くには景観の保存だかそれとも文字通り何かの記念なのか、近隣の住民が「記念公園」と呼ぶ場所がある。広い緑地を持っており、犬の散歩やジョギングコースに利用する人も多い。俺もよく走り込みの練習にそこを使っている。
『さっきは急にごめんな、俺から呼び出しておいて』
「や、別にいいけど。ちょっとびっくりしたくらいで。用事、もう済んだのか」
 そう答えた直後、俺はコップに耳をあてたまま──要するに受話モードのままスズキに話しかけていることに気づいた。これでは相手に聞こえるわけがない。スズキはスズキで送話モードのままでいるらしく、どうにも応答が噛み合っていない。さてどう対処したらいいものか俺が考えあぐねているコップの向こうで、スズキがすっと息を吸い込んだ気配がした。
『カジが』
「あ?」
『…カジが、あのときのカーディガン着てたからいろいろ思い出したんだ。去年の6月くらいに、夜中電話くれたときの』
「…カーディガン?」
 スズキがなんのことを言い出したのかまるで理解できなかった。こういったことは生身のスズキを目の前にしていてもよくある現象である。
「カーディガンてこの、今俺が着てるやつのことか?」
 そうだとしたらそれがいったいどうしたというのだろう。問い質そうにも向こうにはこちらの声は聞こえていない。ただ妙に真面目くさった声でスズキが話し始めたので、分からないなりにとりあえず話を聞くことにした。 
『あの夜も確か雨が降ってて。俺は作品をひとつ仕上げてもう寝てて。』 
 コップを耳にあてたまま窓の外を見遣ると、薄い灰白色の雲を透かして太陽が控えた空はそれなりに眩しく、その妙に明るい空からずっと雨は降り続いていた。耳を澄ませば辛うじて雨音が聞こえるくらいの、外出するなら傘をさすべきか微妙なところだ。
『それで寝ぼけてて、勘違いしたんだけど。おまけにその次の日も、なんか変なこと口走ったかもしれないんだけど』
 こういう類の雨は止みそうでなかなか止まない。ラジオでは案の定、今日一日雨は降り続く予定らしかった。洗濯物も干せないし、服を買いに歩き回るのも億劫だ。
『でも、嬉しかった。──ありがとう』
「…それはどういたしまして」
 礼を言われたのでとりあえず応じた。右耳にはスズキの声、左耳には雨音が届く。そういえば今頃鳥たちはどこにいるのだろう。空を眺めていた目を閉じると、光の残像が瞼の裏で踊った。なんだかまた眠りたい気分だ。
 それからまた少しの間があり、俺はそのまま耳を澄ませた。
『…俺も。好きだよ』
 目を開けた。なんだかこのちぐはぐさ加減には覚えがある。
 とにかくこの沈黙は非常にまずいような、しかしむやみに踏み出してはなにか大事なものを見失ってしまいそうな、危うい予感がする。
「スズキ、」
 しかし返事を求められていると思ったのは俺だけだったようで、一気に荷を降ろしたような急にくつろいだ調子でスズキは続けた。
『さて、帰るかな。』
 そこでようやく俺は、6月の夜にスズキにかけた電話のことを思い出した。
 ──ああ。電話って、あれか。
 それは早々と衣替えをしてしまった梅雨の頃のことで。Tシャツで眠るには肌寒い夜に、俺のカーディガンを知らないかとスズキに電話をかけたのだ。結局それは俺の部屋で見つかって、眠っていたスズキを起こしてしまっただけに終わったのだが。
 俺はつらつらとその夜のことを思い出した。
『腹も減ったし。さっきパン、食べ損ねたから』
 さっきスズキは何て言ってたっけ。ありがとうとか言ってなかったか?
 俺の回想をよそに、スズキはスズキでぽつぽつと話を続けている。歩き始めたのだろうか、かすかな息遣いと衣擦れの音が聞こえる。
『あのベーグル、もっかい買って帰るかな。』
 ベーグルならここにある。俺は玄関先においたままの紙袋─そこに入っているのだ─を見て溜息をついた。このコップでスズキに話しかけるにはどうやったらいいんだ。
『途中でお前のとこに寄ってもいいか?…まあ、カジがこれ聞いてるかどうか分かんないけど』
 聞いてたよ。ただ文脈が読めなかったけどな。
 俺はもう一度窓の空を見た。傘は持って行った方がいいだろうか。
 確かあのときも雨が降っていた。
 珍しく寝ぼけていたスズキは応答が妙で、何故かその翌日の様子も妙で。
『とりあえず一度切るな。──それじゃ』
 まあいい。どうせこれから会うのだ。今の話も含めて、そのときにもう一度問い質してみればいいことだ。俺は再びジャンパーを羽織った。
 今日は一日雨が降るらしい。何もしないでずっと寝ているのもいいかもしれない。
 結局傘は持たずに部屋を出た。
 黄色の背中はすぐに見つかるだろう。
 
 



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