明日から夏休みを控えた金曜日の大学生がすることなんてほとんど決まっているようなものだ、しかも彼女がいない・そうなる予定の相手すらいない大学2年生男子なら尚更。
ご多分に漏れず数人の部活仲間たちと大いに酒を飲んだ俺は、幾分ふわふわとした心持ちで帰路に着いていた。時刻は午前0時46分、上記の例に分類される男にしては、自分は割と切り上げどころを心得ている部類だと思う。夏休み中も部活はあるし、バイトのシフトも増やしていた。明日も早速その両方が控えていたので、1時には布団に入っていたかったのだ。
夜の住宅地では、昼の焦げつくような太陽の光を吸収したアスファルト──スニーカーの底が溶けやしないかとときどき不安になる──の熱もすっかり冷めて、乾いたにおいを漂わせていた。時折そよぐぬるい風が、汗のひいたTシャツに気持ちいい。カバンも買い物袋も持たない両手は思いのほか軽くて、このままどこまででも歩いて行けそうな気になる。
途中でコンビニに寄って茶を買って、それとスズキのとこに預けていたスポーツバッグを持って帰り(大学から飲み会に向かうときに置いていった)、シャワーを浴びて歯を磨いて寝る。…うん、1時半には寝られるな。
そう、認めよう、俺は確かに酔っていた。
奴に関わって予定通りにことが進んだためしなどないというのに。


ドアチャイムを一度鳴らして待ったが、応答はない。「どうせ今日も明け方近くまで起きてるから」と言っていた筈なので、俺は遠慮なく二度目のチャイムを押し、ドアを引いてみた。
「……開いてる。」
「わ、どしたカジ?」
 無用心にも鍵を掛けていなかったドアが開くのと同時に、内側からドアを開こうとノブを握ったスズキが倒れ掛かってきた。スズキがとっさにもう片方の腕をドアとの間に突っ張ったのでぶつかることは避けられたが、いくら男とはいえこの顔が間近に迫るのは心臓に悪い。
「あ、…悪ィ」
「だいじょうぶだ!──ああカバンか、ちょっと待っててくれ。上がってけよ」
「いやいいここでいいむしろここがいいんだ、荷物取りに来ただけだから」
「そうか?じゃ今取ってくるから」
玄関先に立って待っていると、歩いているときは感じなかった眠気がどっと押し寄せてきた。それは頭の奥がじんと痺れるような感覚で、一度目を閉じてしまえばまっさかさまに落ちてしまいそうなほどの深さだった。下を向くと、浮遊感が強くなる。俺は幾分頭を上げて扉に背を預けた。
 ほどなくバッグを手にした何故か満面の笑みのスズキが現れ、それにはあえて突っ込まないようにした俺が目を微妙に逸らしながら、
「ありがとな、じゃあまた。おやすみ」
とドアノブに手をかけると。

…開かない。

勿論鍵は掛かっていない。現につい数分前俺が自分で開けたドアである。それくらい、今の霞がかかった頭でも覚えている。
「………」
二度、三度とノブを下ろそうとするが、途中でガキッという音を立ててその動きは止まってしまう。俺の背中に奴の嬉々とした声が飛んだ。
「その上を見てくれカジ!黒いプレートだ」
見れば、ドアスコープのやや下のほうにトランプのカードほどの大きさをしたプラスチックのプレートが
取り付けられている。小さな黄色い光が点滅していた。
「オートロックキーを作ってたんだ!予め登録したキイワードでしか扉が開かないように!これで秘密基地の安全も万全だ!実はさっきちょうどテスト第1回目を始めるところだったんだ」
何か説明し始めちゃったよ。
しかも大学生がそんな真剣に秘密基地って。
「そしてキイワードはこれだ!!」
 スズキがでかでかと『GOGO!ガジェット』と書かれたルーズリーフを掲げた。
「さあソレに向かって言ってくれ!」
 俺はそのとき非常に疲れていた。部活のあとに酒も飲んだし、明日には(以下略)。抵抗したり「お前が言え」だのごねたりするより、早く家に帰って眠りたかったのだ。俺は項垂れながら、再度ドアノブに手をかけた。ああちくしょうくらくらする。
「…ゴ、ゴーゴーガジェット……」

……
………開かない。

「…おいスズキ…」
「あれおかしいな?」
首を傾げながら今度はスズキが例のプレートに向かい、「ガジェット」と何度か繰り返した。
「ダメだ。開かない…どうしてだ?」
「あってかお前キイワードはガジェットだけで良かったのかよ!ゴーゴーいらねえじゃねえか!」
俺の突っ込みなどどこ吹く風でスズキはキイをドアから外し、ジーンズのポケットから出したドライバーでカバーを取って中をざっと改めた。
「…どこにも不備はないな…キイワードのインプットの段階で何かミスしたのか」
「スズキ、これ開かないようなら今日は泊めろよ。明日も俺バイトと部活あるからそれまでには直しとけよな」
悲しいかなこいつと会ってから俺は現実的な処理能力に非常に長けてきたと思う。あの優しい痺れは頭からもはや全身にまで広がっていた。とても気持ちいい。早く横になりたい。
「キイワードは五音。40dB以上の音量で日本語・英語・フランス語・ドイツ語・中国語いずれかの一単語を使用することにしている。取り付けたドアを開けた状態で登録スイッチを押しながら…確かに『ガジェット』と登録したはずだ…復唱もさせたし…あ、カジ、バスタオルの場所は知ってるよな、2段目だ。」
 スズキの独り言のあいだ、俺はまたドアにもたれて目を閉じていた。どうにか目を開けて身体を起こす。
「…ああ…シャワー借りるぞ…」
「あ!!…もしかしてさっきドア開けたとき…!なあカジ、カジここに来てドア開けたときさ、最初になんて言った?」
「……あ?」
 どうやら俺はさっきから短い夢を見ていた。授業中の居眠りのときに、夢のなかでもその授業を受けているようなそんな具合に。いま俺に話しかけてるスズキも夢かもしれないぞ、そんなことを思った。
「さっきだ、さっきここに入ってきたとき、なんて言った?」
 あれ、じゃあシャワーを浴びてスズキに借りたピンクのバスタオルで身体を拭いてたのは夢か。現実の俺はシャワーも浴びていないし靴すら脱がないまま、玄関先でスズキにわけの分からない質問をされている。
「鍵開いてたから…、“開いてる”って言った。」
「“開いてる”?“開いている”じゃなくてか?俺は確か“どうしたカジ”って言ったけどこれは一単語じゃないから…」
 目の前のスズキは眉を寄せたまま「“開いてる”…“どうした”…」と呟きながら考え込んでいる。途中、手にしたキイに向かって何事か言ってみたがだめらしい。俺は夢と現実の区別をつけようとどうにか頭を数回振り、ドアから背を起こした。そうだ、この重たい手足の感じ。これが多分現実だ。
すると突然「わかった!」と叫んだスズキがタン、と片腕をドアに伸ばして、キイをもう一度ドアに取り付けた。それはいいのだが。
その動作のせいで俺は再び元の位置に追い込まれることになった。背にはドア、左は壁、右はスズキの腕。その狭い空間に囲い込まれた態である。
スズキの顔がゆっくりと近づく。睫毛の長い大きな茶色の目やら、そこにかかるやはり茶色の前髪やら、すっと通った鼻筋やら軽く開いた唇やら。そんなものたちが目前にある。
そういや飲み会でもちらっと話題が出たな。それ以外の場所でも、よく耳にすることだけれども。
“すげぇかっこいい”だの“キレイな顔”だの。
だから心臓に悪いんだよ。
こんな体勢。こんな体勢はまるで。
まるで。
なぜか俺は、あんなに努力して開いた目をまた閉じた。
心臓がひどく騒いでいる。
更にスズキが近づく気配があった。
おそるおそる目を開ければ、ひどく真剣なスズキの顔がまっすぐにこちらを見ている。
唇が言葉をかたちづくり、スズキは首を傾げるようにして、俺の耳元に顔を寄せた。
「──あいしてる。」
「───……!!」


カチッ。

俺の顔のすぐ横に取り付けられたキイがピピッと音を発し、続いてドアのどこかから開錠する音が聞こえた。
「やった!!開いたぞカジ!…カジが来たときに俺がよろけて、登録スイッチ押しちゃってたんだな!しかもあのとき俺たち同時に喋ったもんだから、ちょうどタイミングよく機械には『あいしてる』って聞こえたんだ!今度から一種類の音声しか拾わないようにしないと」
「………」
「?カジ?どうした──大丈夫か?!」

結局俺がスズキの家の玄関先で倒れるように眠ってしまったのは、酔いがひどく回ってしまったからだと思ってほしい。




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