3階の講義室の窓からは、空しか見えない。
 教壇の両脇の扉から人がぞろぞろと出て行く後ろ姿を、俺は見るともなしに眺めていた。木曜の講義は午前中のふたコマしかとっていなくて、そのふたコマ目もつい先ほど30分も早く終わってしまったのだが。11月のよく晴れた日、程好く効いた暖房と、後ろから2列目の窓際に差し込む日射しが気持ちよくて、俺はうつ伏せて暫くじっとしていた。
 どうせ帰っても、することは特にない。
 目を閉じると、光が透けて瞼の裏がうす紅く染まる。講義中の眠気はどこかに行ってしまったようだった。仕方無しに目を開けて、うつ伏せたまま窓の方へと首を曲げた。身を起こしていれば本当は、電線や木のてっぺんやマンションの屋上やらが目に入るのだが、この目線からだと空しか見えない。1年の頃初めてソレを発見したとき、なんだか少し楽しい気分になったのを覚えている。
 ──おおほんとだッ!面白いなカジ!──
 隣の席に勿論奴はいない。いるような錯覚に捕らわれる期間は、もうとっくに通り越した。
 教室には誰もいなくなっている。俺はのろのろと起き上がり、帰り支度を始めた。
 
スズキが突然いなくなってから、2ヶ月が経とうとしていた。


「それじゃあまた明日なー。…あそうだ、カジ俺来週からちょっとアメリカ行ってくるわ」
「あ?旅行か?」
「旅行…ってわけじゃないけど。あっちでガジェット警部実写版映画製作スタッフから話を聞く機会がありそうなんだ。ついでに向こうの大学には親父の友達がいるらしいから、その間はそこで研究でもやらせてもらおうかと」
「ふーん。…で、ソレいつ帰ってくるんだ?」
「いや、特に決めてない」
「……ふーん……」
 最初の一週間は、ほとんど実感も湧かないままに呆然と過ぎた。
 次の一週間は、奴のいない新鮮な生活をそこそこ楽しんだようにも思う。自由な時間が増えたから、その次の一週間からはバイトを増やしたり、部活の飲み会に出てみたり小野たちと出かけてみたりもした。そうしてひと月が過ぎる頃、とくべつやりたいことも見つからなくなってしまった。正確には、やろうと思っていたことをいざ実行してみると、途端に気持ちが萎えてしまうとでも言うべきか。
まあもともと、無気力な人間ではあるのだ。
俺は今度は地上から空を見上げる。風は冷たいが天気はいい。通りに並んだ建物の屋根や窓ガラスや、その前に停められた自転車があちこちに光を受けて輝いているのを見て俺は突然決意した。いつもの角を逆に曲がる。
駅に行って電車に乗ろう。
どこかに行きたいわけでもなかったが、なんとなくこのまま家に帰りたくなかった。

 
5つ目の駅で降りてみる。駅前にデパートとメインストリートとミスター・ドーナツがひとつずつある小さな町で、改札口の辺りから連続的に立て並べられた旗に書かれている“世界のビール展”とやらに行ってみることにした。
 なるほど確かに博物館のような外観の建物の内といわず外といわず、たくさんの屋台が出店していろいろなビールを売っている。オランダビールやらフランスビールやらドイツビールやら、北海道ビールやら沖縄ビールやら。なかにはどこの地方の特産なのか知らないが、わさびビールなるものまで売られていた。ところどころでつまみを売る店もまた別にあり、平日の昼間にしては随分多くの客が来て焼きソーセージやじゃがいもを買っていく。俺はまず建物の中に入り、ビールの醸造の方法やその材料となる麦芽の種類、酸味の度合いについて絵・写真入りで詳しく説明されたパネルをじっくりと端から端まで念入りに読んだ。なにせ暇なのだ。ビールの製法に格段に詳しくなり、屋台数軒を挟んでその隣にある土産物売り場へと行ってみる。“ビール酵母使用・ビールパウンドケーキ”にやたらと目が奪われたが、試食用に小さく賽の目状に切られた欠片を口にしたカップルの表情は二人とも微妙だったのであまり美味くはないのだろう。
 どんなに丁寧に見て回ってもせいぜい20分で見終えてしまったので、再び屋外に出てドイツの何とかというオレンジがかったビールとフランクフルト・ソーセージを買った。パラソルの挿さった白いプラスチックのテーブルと椅子が並ぶ、俄か誂えのビヤガーデンの一角に腰を落ち着けると、席を探して行き来する人たちの合間に見覚えのある姿があった。
 それはさっきの電車で向かい側に座っていた、自分と同じぐらいの年に見える男で。人も疎らな車両のなかで外国人だからというのもあったが、白い肌と明るい茶色の髪という色彩のバランスが、
 ──似ていたのだ。
造作は特に似ていないのだが、視界の隅にあるときの曖昧な輪郭と色合いが半ば反射的にスズキを思わせた。頭では違うと分かっているのに、その一瞬だけは何度でも騙された。
 あいつは今、何をしてるんだろう。
 きっとまあ、その製作スタッフとやらと意気投合したり研究に没頭したりして楽しく暮らしているのだろう。連絡先の電話番号と住所が書かれたメモは渡されていたが、何を話したらいいのか言葉は栓をしたように出てこなかった。会話の口火をきるのも何らかの行動を起こすのも、常にスズキからだったように思う。便りが無いのは良い報せとも言うし、それに俺はあいつが自分の好きな分野にどれほど熱中してのめりこむか知っている。本場に行って、本物の足跡を追えるのだからこれ以上の関心事はないだろう。単に名前の語感が似ているだけの、試作品を試すのに使えるだけの人間なんて比較にならない。
 学生仲間だろうか、数人の男女たちと一団となって、ビールを片手に持ったその男がゆっくりと目の前を通り過ぎる。
 なあスズキ、今日お前に似た奴を見かけたんだ。外国人でさ、とくにどこが似てるっていうわけでもないんだけど。
 そんなことを言ったら奴はどんな顔をするのか。案外自分自身のことには興味が薄いようだから、「へえ」と聞き流すだけかもしれない。それよりももしあいつがここに来たら、きっと面白がって真っ先にわさびビールを買ってみるのだろう。しかもなぜか俺の分まで二人分。僅かに笑いがこみ上げてきたが、その瞬間ふと、もうスズキは帰ってこないのかもしれないな、と思った。あいつは基本的に優しいから、電話をすれば俺のどうでもいい話だって熱心に聞いてくれるだろうし葉書でも書けば返事もくれるだろう。しかしスズキが俺に話すようなことは本当はきっと何もない。ずっと熱心な聞き手があっちにいるのだ。
 パラソルの色とりどりの表面に反射した光が、ひどく眩しい。白いテーブルにはこの季節に珍しいほどくっきりとした濃い影が作られていた。
 あと1年もしたら大学は卒業になる。そのあとここに留まるのか実家に戻るのかは決めていないが、おそらくあの部屋には住んでいないだろう。仕事に就くことにもなって、そして。
 別に寂しいとは思っていない。ただ、近い将来あいつを完全に忘れきって暮らしていく自分になれるという事実に、少しがっかりするだけで。
 隣のテーブルでは、老人がビールを飲みながら孫とホタテを食べている。さらにその隣では、数人のおばさんたちが丸いテーブルを無理やりに二つくっつけて、一人が早口に喋るのを、残りがふんふんと頷きながら聞いている。見渡せば様々な人々でテーブルは埋め尽くされ、空にはソーセージを焼く煙が立ち昇り、どこかのスピーカーからは何かの音楽が聞こえてくる。急に、この祭典のなかにひとりでいることを実感した。
 がっかりしようとなんだろうと、早く慣れないと。
 本当に帰ってくるのか、そうだとしたらいつになるのかは、スズキ自身にも分からないのだろう。でも確証がないまま待ち続けるのはきっと、分かっていて10年待つよりやりきれない。


 あれから更に一週間と2日が過ぎた。朝から冷え込んだままの、冷たくて薄暗い一日もようやく終わろうとしている。身体が妙にだるく、部活から帰ってなんとかシャワーを浴びたものの、どうにも動く気力が出ずに俺はソファーに横になっていた。今朝計ってみたらやや微熱があったから、これは本格的に風邪をひいたのかもしれない。部屋は冷え切っていたが、暖房をつけるよりも今日はもう、布団に潜って寝てしまった方がいいだろう。それは分かってはいるのだが。
 ちらりと、机に置かれた携帯に目を遣る。
 スズキからは相変わらず、音信が途絶えたままだった。確定的な未来に着々と近づきつつあるということか。
まあ、どんでん返しなどそうそうあるものでもない。少なくとも、それを期待しているうちに起きたらそうは呼ばないのだろうし。
電気をつけていない室内はどんどん暗さを増してくる。いいかげん足先もかじかんできた頃、俺はなんとか自分を励まして身を起こした。大学は休みだからいいものの、明日は夜勤のバイトが入っている。小野が言ってた飲み会、断っておいて正解だったな…。そんなことを考えながら、布団を敷こうと押入れに手をかけたそのとき。
電話が鳴った。

 もう期待するな、と言い聞かせつつも騒ぎ出した心臓は、着信画面を見て更に高鳴った。そこには誰の名前も表示されず、何桁かの数字の羅列。
「──……もし、もし。」
「──……」
「………スズキ?」
「あ、よかった!やっとつながった〜」
 カジエツトさんご本人ですよね?

──嗚呼、ヤ●ト運輸。

俺は激しく自己嫌悪に陥りながら電話を切った。
バカだよなあ、なんでアメリカから東京03の電話がかかってくるんだよ。ちゃんと見ろよ俺。なに配達員相手に「スズキ?」とか尋ねちゃってんだよ。
恥と熱で上気したまま布団を被って、無理やり目を閉じた。痛み出した喉のせいで、息がうまく吸えなくて苦しい。
どれもこれも風邪のせいだ。
「……スズキ、」
 思わずその名前が口をついて出てきて、悔しいが俺はとうとう観念した。
「──サビシイ。」
 口に出してみても、なんということはなかった。出したそばから言葉は部屋の暗がりに吸い込まれて、その無為さを確かにしただけだった。何事もないまま、時間が刻々と流れていく。
 そうだ認めるとも、寂しかったんだ。
「ただいまッ!!」
 
──え?

「いないのかカジ!もう寝てるのか?」
 俺が飛び起きて部屋の電気をつけたのと、奴が部屋のドアを開けたのはほぼ同時だった。
「おおカジッ今帰ったぞ!元気にしてたか?!」
「え…あ…なんでお前──」
「たった今着いて空港からタクシーだ!トランクの中の土産はほとんどお前のだからまっすぐこっちに来たんだ」
 そこには本物の、見慣れたスズキが立っていた。スズキは満面の笑顔で言葉を継ごうとしたが次の瞬間急に眉根を寄せて俺をまじまじと凝視すると声のトーンを落とし、
「風邪か?」
と訊いてきた。圧倒されていた俺はそこでようやく我に返った。
「いやこれは別に大したことないんだけど。それよりなんでお前……うわなにすんだよッ」
「アメリカ式挨拶だ!」
ぎゅう、と俺を抱き締めたままスズキは「風邪のくせに髪も乾かさないで!」と珍しくまともなことを言って怒ったが、身を離すと弾丸のようにまくしたて始めた。
「大収穫だったぞカジ!もう聞いてほしいことが死ぬほどあるんだ!今度お前と本格的に留学するときはどこにするべきか目標も定まったし!それに第一だな…」
「分かった。分かったからスズキ、まず上着脱いでそこ座れ。いま暖房つけて茶でも淹れるから」
 さっきまで部屋に満ちていた寒々しい暗がりはどこかに消えてしまっていた。
 ああ、確定的未来なんてくそくらえ。
 そういえばお前どうやって入ってきたんだよ、という問いに奴は目を輝かせて、おお聞いてくれるかカジッ!と言いながら胸元をごそごそ探り始めた(まあもちろん予想はついていたのだが)。
 そして今気づいたのだが、奴の立っていた後ろにはどでかいトランクが、黄色とオレンジとひとつずつ。
「あーあまったく…」
 今夜は眠れそうにない。
 やかんを火にかけながら俺は、明日のバイトの時間までどうやったら充分な睡眠時間を稼げるか考え始めていた。






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