脱ぎ捨てたままにしておいたパーカーのポケットから、いつ誰にもらったのか飴がひとつ転がり落ちてきた。カツンと音を立てて床にぶつかったソレは小さく跳ねて、目の前の箪笥の足元で止まった。
 拾い上げて包みを開けながら、俺はその箪笥を眺める。
 ─5月の第4週。
 そろそろ、カタをつけねばなるまい。
決意して身体の向きを変えかけたそのとき、玄関先のチャイムが鳴った。

 思わず顔をしかめてしまったのは、こんな時期までずるずると放っておいた引越し荷物を花の土曜日に片付けなくてはいけないこの状況にではなく、口に放り込んだ飴が『からだすこやか…黒酢黒飴』という得体の知れぬものであったということにでもなく。
「見てくれ聞いてくれ装着してくれカジッ!」
 4月からずっと、荷解きはおろか日常生活を営むだけのエネルギーさえ俺から奪っていく原因が華々しく襲来してきたからだった。


今から片付けすんだよ、という俺のささやかな抵抗はものともせず部屋に上がりこんだスズキはムダにキラキラした笑顔で答えた。
「そんなこと3日前くらいから知ってるって!」
 なんでだよ。
「だからカジの為にコレ持ってきたんだぜ?」
俺はドアまでの距離を目測した。きっとまた恐ろしく怪しげな発明品に違いない。とりあえずこの前のみたいに俊足で追ってくるようなやつでなければいいが。
「あ、そうそう…」
息を呑む。舌の上でとろとろと溶ける飴の甘ったるさが、一層に喉の渇きを誘った。
 ああ、この飴スズキにやりゃよかったな…
「こっちはオミヤゲ。今おれコレにはまっててさ〜、『からだすこやか…黒酢黒飴』」
 だからなんで。
 それでこっちが、と言いながらスズキが取り出したのは。
 袖カバー、だった。(おそらくゴムの)

 一瞬間、俺達の間に静寂が舞い降りた。
相手はいかにも「感激した?」という面持ちでこちらを覗き込みながら俺の言葉を―おそらく感嘆符つきのを―待っている。俺は大きく息を吸い込んだ。知り合って一ヶ月、俺なりにこいつへの対応の仕方は学んだつもりだ。なあスズキ、と言いかけて思わず口を噤む。
 視線を移した先の、奴のTシャツには。
 朝鮮人参。
 黒々とした毛筆で、そう書かれていた。
 一瞬つっこみの矛先を失ってしまった俺に先んじてスズキが口を開く。
「そういうわけだから、片付けなんてあっという間に終わるぞッ」
「いやわかんねえし全然。」
「つけてみれば分かる。さあ装着だ警部」
「警部って呼ぶな!それに俺の記憶の限りじゃガジェット警部はこんなの腕につけてなかったぜ?」
「それはまあ、俺が小6の頃の作品だから。外観が多少見劣りするのはしょうがない。いつかリメイクするつもりだし。」
真顔で俺を見つめながら「それに」と続けた。
「ガジェット警部をただ模倣するだけじゃいけないんだ。彼の真髄を見究め、その魂が求めるだろう新たなる発明を続けていくことがこの事件の肝要なところだよワトスン君」
 途中から誰だ。
「いやでもさ、片付けっつっても俺の持ち込みなんて服と小物くらいだし、後は講義のプリントとか整理するだけだから道具とか別に使わな…」
 スズキは既に、俺の左腕を掴んでカバー(しかも花柄)を嵌めようとしている。俺は必死で腕を引いた。
「いやだからさ、その服の整理が面倒じゃね?畳むのとかさ。冬・春物とかちゃんとしないとかさばるし。コレ使うと一着平均0.05秒で畳めるんだよ服が。」
「や、でも…」
 再度左腕が捕まる。手首にゴムが(以下略)
「んじゃ、俺がやってやろうか?やりたくなったら交代してやるから」
いつだったか2週間ほど前にこいつが来たとき、今のように取り散らかった俺の衣類に紛らせるようにグレーのトレンチコートを2着とそれとお揃いの帽子を3つ置いていった所業を考えれば服の整理などを任すのは抵抗がありまくりだったのだが、それ以上に自分がこの不気味な花柄の袖カバーを身に着けることの方が遥かに恐ろしかったので、俺は頷いてしまっていた。

 スズキは速かった。
 怒涛のごとく、稲妻のごとく。
 小さな空気の渦(竜巻?)さえつくりながら瞬時に衣服を畳んでゆくその光景に、俺はぼんやりと『疾風迅雷』という言葉を思い浮かべた。
「…疾風迅雷、ペリー来航。」
 いやペリー関係ねえか。そのただならぬ速さに驚き呆れた俺は、先程から気づいていたスズキのTシャツの一文字“上”、即ち“朝鮮人参”ならぬ“朝鮮人参上”という周到な引っ掛けにはおろか自分の言動にさえ声を出してつっこむことができなかった。
 でもまあ、おかげで服の整理はすぐに済みそうだし(俺がアレを装着する気はないが)。
 それさえ終われば、あとはCDとかを棚に並べて。学部案内のパンフとかクラブ勧誘のチラシとかいらないものは捨てて。
今日は天気もいいしどこかに出かけてもいいな。
徐々に浮上してきた気分で、それにしても随分ぴしりぴしりと畳めるものだと思いながら先ほどのパーカーを手に取ると。
「……?」
肩に、違和感。

――膨らんでいる。

そう、丁度肩パッドを入れたみたいに。
彼の、トレンチコートみたいに。

「ちょ、スズキ…?」
俺が声をかけたときには、もう既に俺の全部の衣服は畳まれていて。振り向いた奴の笑顔はやっぱりムダにキラキラしていて。
「ん、コレ?ガジェット仕様。」
午前十一時の光が差し込む部屋は、とても明るくて、暖かくて。
「そういやカジ、今『ペニー来航』とか言ってた?」

 俺は、今日これからの予定を考え直していた。








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