(*ここから続いてます)



雪をすくいとった あかい君の指さきを、
僕の両手であたためるのに 理由なんか探してる。



 踏みしめたブーツの跡を雪がサクリと従順に残すのは限定されたある条件の下だけで、少なくとも3月も間近なこの時期─両手で足りない程度に積雪と雪解けを繰り返したあと─には、地面は凹凸に富んだ氷で覆われた危険極まりない代物になる。もちろん人間は学習する生き物だから、そんな季節も三度めとなればそれほど派手に転んだりはしなくなる、ケースが多い。
「どうしてこう、凍った雪ってこんなに硬いんだろうな」
「凍ってるからでしょうね」
 振り向かなくとも、後ろを歩くヤギサワさんが擦りむいた両手をきまり悪げに振り回しているのがなんとなく分かった。家に帰りつくまでにあと2〜3回は転ぶのではないだろうか。
「ないですね、黒い手袋。」
「さっきからなんで車道の方ばっかり見てんの」
「先輩の手袋なのでおそらく車道に飛ばされて雪と泥まみれなんじゃないかと」
 ひでえ!とあがった声の、終わりの母音がそのまま小さな悲鳴に続く。しかし今度はどうにか持ちこたえたらしい。いちいち振り返るのも面倒なのでスピードを緩めずそのまま歩いた。3日降り続いた雪がようやくやんで空にはうすい雲がかかっている。それでも雪の照り返しが強いせいか、あたりがやたら眩しく見えた。
「…ごめんなミズノ」
 轍の跡をなぞるように、凍った地面をザリザリザリと削りながら隣りの車道を車が追い越していく。そのせいで背中にかけられた呟きはずいぶん聞き取りにくかった。

 学生生協に取り寄せを依頼していた幾冊かの本を朝一番に受け取り、『部室』で小一時間それを読んだあとの帰り道でヤギサワさんを見つけた。講義棟入口の電光掲示板をぽかんと見つめている。間の抜けた表情とそれなりに高い背丈を持て余すように猫背ぎみの姿勢はいつもどおりだ。
 きょう休講なの。と間のびした声が白い息とともに頼りなげに無人の廊下に吸い込まれた。うっすらあかい鼻のあたまと所在無げに肩にかけたかばんの情けなさ具合もまったくもっていつもどおりだったので、こちらが普段の調子を取り戻すことは思ったよりもずっと簡単だった。
「たとえ講義があったとしても、もう半分以上過ぎてる時間じゃないですか。」
「途中からでも出席しようという熱意を汲んでもらえないかと」
 俺、四日ぶりに外に出たのになあ。とぐるぐる巻いたマフラーの中へ首を縮こめる姿に開きかけた口を閉じた。前回の講義で既に休講の連絡があったが、それを彼が聞き損ねたいきさつに触れかねないと気がついたからだ。
「せっかくだから部室に寄ってくかなあ」
「木になら水と栄養剤をあげておいたし、さっきまでストーブをつけていたので暖かいはずです」
 このまま放って別れるのが思いやりなのだろうし、向こうもそう望んでいるだろう。だから会話はここで終わりにするべきだった。帰るタイミングが少しでもずれれば、それでよかった。
「だけど灯油を補充しないと、もうストックはありません」
 ガシャンと自分の鼻先で窓口を閉められたようなヤギサワさんの顔を眺めながら、どうしてこんな余計なひとことをつけ加えてしまったんだろうと考えた。さっきマフラーの中で一瞬伏せた目元が、いつもより少し腫れぼったく見えたからかもしれない。

 『部室』とは言っても名ばかりの部だ。『晴耕雨読部』。本はあちこちに積み重ねられてはいるが特に何も耕してはいない。大学やら個人やら、置き場に困った観葉植物たちが鬱蒼と葉を茂らせているだけの部屋だ。二人掛け用のソファがひとつと、パイプ椅子がいくつか。特に広くも清潔でもないが日当たりだけはいい部屋ではある。
 どう見ても何ら得るところはないそんな部に籍を置いたのは、新入生歓迎会の席で隣りに座った『アロマテラピーサークル』の勧誘がしつこかったのと、更にその隣りで女の子に勧められるがままに酒をあおりすぎてもはや勧誘ともうわごとともつかない口上を続ける男を成り行き上家まで送り届けてやったのがきっかけだ。「サンセベリアはとらのしっぽ…」と重々しく27回くらい繰り返しているこんな人が長を務める部はきっとどうしようもないのだろうと思ってたら案の定どうしようもなく、部員といえば本人以外には不特定の数名が出入りしているという有様だった。唯一の活動内容は部屋の木を枯らさないこと。夏の間は勝手に成長するが、冬の間はときどき部屋を暖める必要がある(と彼は信じている)。講義の合間やあるいは講義の時間、ソファで眠っているか、たまに目を覚まして本を読んでいた。
 そのせいか記憶のなかの彼は寝顔か寝ぼけた顔が大半で、そうでなければつかみどころのない草食動物のような表情ぐらいのものだった。
 驚きあわてたり、お前に何がわかるんだなんて泣きだしたりする顔はもちろんその中に含まれていない。講義と部室でときおり顔を合わせる程度で、もとより接点はそれなりだ。
「ミズノ、なんか俺、目がちくちく痛い。ついでにさっきの手も痛い」
 ヤギサワさんは信号待ちのあいだ、傍のサザンカに積もった雪をひとすくい裸の掌に握った。
「雪をまともに見るからでしょう。」
 わー冷てぇ、と当たり前の感想を呟く横顔に、1週間前の片鱗はうかがえない。
「家、次の信号右でしたか。」
「うん」
 痛がり冷たがりながらもう片方の手にも雪を握りこむ行動が理解できないまま信号を進む。歩き出すと、彼は隣りの位置から再び後ろについた。日射しは少しずつ強くなり、雲の隙間からうす青い空が覗いた。
「明日は車で来てくれると嬉しいなあ。灯油買いに行くだろ」
「灯油代は部費ですね」
「部費って俺払いってことですよね」
 あとになって気がつくものごとはたまにある。気がついてよかったという場合もあるし、今更気がついてもどうしようもないこともある。あるいは気がつかないままならよかったということも。
「せめて折半にしよ」
「先輩が部室にいる時間の方が圧倒的に長いですよね」
 部室に出入りしていた不特定の人々のなかに、俺はうっかり特定の見当をつけた。
「じゃあ1:2!それならいいだろ」
「話になりませんね」
 人の考え事を余所に、妙に元気になってきたヤギサワさんは勢いづいて言葉を続ける。
「ええーじゃあいいよ俺が全額でも。でもその代わりミズノは女の子勧誘してきてよ」
 そう言い終えたあと、急に彼はきまり悪そうに黙った。
 空回りもいいところだ、とか何とか言ってやろうかと思ったが口には出さなかった。
「…結局、見つかりませんでしたね手袋。」
 ふたつめの信号にさしかかる。青になれば、ヤギサワさんは右へと曲がる。
「あーうん…もしかしたら部屋に置いてきたの、かも。」
 灯油の買いおきが切れたと告げられ、自然そのまま一緒に帰る流れになりそうな足を止め「手袋をどこかに落としたみたいだから探しながら帰る」と嘯いた言葉を額面通りに受け取ってやったのはこちらだ。
 手が冷えきっているのだろう、ひとつ前の信号ですくった雪がまだそのかたちを残している。指先は痛々しいほどにあかい。
 ──本当は誰の傍にも居たくないくせに。
 そう言ってやりたかったがやめた。先週の二の舞は御免だ。
 
 その代わり、10本のあかい指先をためらいもなく握りこんだ。


                                                                               end.