発端はこの絵→
Do you still remember , my sweet?
菊川が困惑しているのを無視し、俺は会話を続けた。
「それで結局その水漏れは直ったわけだな?」
「ああ。蛇口のパッキングが緩んでるとか、そういう問題じゃなかったんだ。俺のその場凌ぎじゃ通用しなさそうだったから結局業者に頼んだ……おいこれ、」
「奢るから食べろよ。嫌いじゃないだろ」
目の前に置かれた大きなパルフェ。専用なのだろう、非日常的に細長いスプーンを手に取り見つめる菊川は、眉を僅かに八の字に寄せている。
たぶん甘いものは苦手ではない筈だ。一緒に暮らしていたあいだ、特にそういった印象は受けなかったから。
「どうしてお前は自分が食べもしないものを注文するんだよ」
どこから手をつけるべきか分からないのか、スプーンはしばしその可愛らしいアートの上を彷徨った。
「一口くらいなら食べてみたいが全部は無理だ。水道管自体が駄目だったとか、そういうことか?」
危なげなバランスで突き刺さった一対のウエハースをとりあえず取り外し、ひとつをこちらに寄越す。
「そう。家自体はそんなに古くないけど、水道管は前々からのをそのまま使ってたらしい。老朽化だな」
菊川は一軒家に住んでいる。海外赴任中の叔父夫婦の留守を預かっているらしい。人の住まない家はすぐに古びていくが、彼の管理に任せておけば安心だろう。なにせ床のワックスがけが趣味の人間だ。
「夜ごと聞こえてた水音はそれだったわけだ」
閑静な住宅地のなかでも割と奥まったところに建てられたその家では、夜はひどく静かだった。テレビもラジオも消してしまうと、風のない夜などにはかすかにどこからか水音が聞こえていたのだ。
ただそれが耳に届くころには大抵俺も菊川もベッドに潜りこんでしまったあとで、互いに確かめようとは思いつつ毎回先延ばしになっていたのだけれど。
菊川はチョコレートアイスの上にふんだんに盛られた生クリームを掬い、口に運んだ。
「…甘い。」
「そりゃそうだろ」
しかしそういえば、彼が菓子を口にするところなど数えるほどしか見たことがない。バレンタインにもらったチョコレートを食べていたのが数回(一度に食べきれる量ではなかったらしかった)、友達に勧められて食べていたのが数回、俺がときどき気まぐれに買ってきた土産を食べていたのが数回程度だ。
いずれにしろこんなに大量ではなかった。無理強いをしたのなら悪かったと思い視線を戻せば、
生クリームをおおかた片付けて、その下の抹茶のアイスとキャラメルソースのかかったバニラアイスとを交互に口に運んでいる。
その様子は機械的と呼ぶにはあまりに、
…美味しそうだ。
改めて述べるが、菊川という男は非常に見目のよい男である。顔立ちは端正で背も高い。女性的ではないが、美しいといっていいくらいだ。
それが銀の繊細な道具を優雅に使い、幸せそうに洋菓子を口にしている。
「…あ。食べるか?」
「いやいい。」
思わず笑いが漏れた。
昔に別れた恋人。
美青年にして性格温厚。学業優秀。
静かな一軒家に猫と暮らし、趣味は床のワックスがけ。
そのうえパフェがお好きとは。
どうも彼自身も未知の扉を俺が開いてしまったらしい。
鼻をくすぐる香りとともに、どこか甘やかな感情がいっとき胸を占めた。