スズキがもう一週間部屋から出てこない。
 これまでにも“ハツメイ”とやらに熱中していたことはあったが、ここまで長く顔を合わせないのは初めてである。
 この迷路のような城にも使用人の多さにもややこしくて難しい決まりごとにも目が眩むような調度品の数々にもようやくどうにか慣れてきたが、だからといってだだっぴろいこの部屋で豪華に盛り付けられた朝食をひとりで食べる味気なさが軽減するわけではない。
 大きな飾り窓は一面開け放たれて、たっぷりの陽光と潮の匂いのするそよ風がここまで運ばれてくる。
 窓の外には緑が茂る庭園と、更にその向こうには海。
 ──…そろそろ、帰ろうか。
 頭の中でそう呟いて、今朝何度目かの溜息をついた。

* * * * * * * * * * * *
 
 スズキとは1ヶ月前に知り合った。彼はどうやらこの一帯の領主様の息子らしいが、俺はそのときそんなことは知らなかった。ただ、もうすぐ嵐が来そうだというのにあんなに大勢の人を乗せたケンランゴウカな船が目についたので、海が穏やかなうちに教えてやろうと思ったのだ。
 しかしあまりに巨大だったせいですぐ近くに見えた船にはなかなか泳ぎ着けず、また船の乗員にもなかなか気づいてもらうことができず、加えてその頃には俺もけっこうな体力を消耗してしまっていた。
 その結果がスズキとの心中劇である。
 打ち上げられた浜が彼の領地であったことはなんといっても幸運だったが、それはつまり俺の暮らす村は遙か遠くの地であるということでもあった。
 スズキは俺にしきりに謝り、お詫びとお礼にと自分の城に招き入れた。
 そしてこのひと月というもの、本来なら俺など一生知らずに終わっただろう暮らしをさせてもらった。スズキは身分の違いなど気にする男ではなく、いつも俺の傍にいていろいろと気を遣ってくれ、面白い話を聞かせてくれた。
 そうした中で俺はスズキのことをずいぶん知ったしスズキも俺のことはほとんどもう何でも知っている筈なのだが、実は未だに誤解が解けてないことがひとつだけある。
「なあカジ、実はうちの昔の領主が今回の俺とそっくり同じ目に遭ったっていう記述が残っているんだ」
 スズキがそう切り出したのはちょうど一週間前のこと。
「その領主も船上パーティ中に嵐に遭って奇跡的に助かったらしいんだが、そのとき彼を助けてくれたのは見知らぬ娘さんだった。そうして知り合った彼女と彼はどうやら恋に落ちたらしいんだが、何故か彼は結局別の女性と結婚している。事故でもあったのか、あるいは彼の浅慮によるものなのかは分からないけどな、晩年の日記で彼女をを失ったことを随分と後悔しているんだ。…それでここが気になるんだが、彼女もどうやら口が利けなかったらしい。」
 その先をためらうかのように、スズキはちょっと口を噤んだ。
「そしてまあ…これはないだろうと思うんだが…老境にさしかかった彼が回想するには、彼女はその…人gy」
 いやいやいやいや。
 ないから。
 確かに俺は口が利けないがそれは生まれつきだし。
 泳ぎは得意だけど2本の足もあるし。
 俺はスズキに向かって盛大に首を横に振り、スズキも苦笑しながら「そりゃそうだよな」と笑ったが、その後しばらく何かを考え込んでいるようだった。

* * * * * * * * * * * *

 突然盛大に扉が開き、その振動でテーブルの銀器やら硝子やらがカチャカチャと音を立てた。
「できたぞカジッッ!!!」
 一週間ぶりに見るスズキの顔は少しやつれて顔色もよくなかったが、その目だけは異様に輝いていた。
「さあ全て準備は整った!出かけようじゃないか!城も見た、庭も見た、街も森も教会も見た、それでもうここには飽きて、うちに帰りたくなった?」
 まあ確かに帰ろうとは思ってたけど。
「それとも失くした声を取り戻しに?俺は口を利けないままのカジでも構わないけど、いやちょっとは声も聞いてみたいとは思うけど、ああこんなことを言いたいんじゃない、そう、ただな、俺に何も言わないで急にいなくなったりしないでほしいんだ!」
 だから生まれつきだし。
 それに帰るにしたって、俺一人の力でここからどうやって帰れるっていうんだ。
「どこに行くにしても止める権利はないけど、せめて手伝わせてくれ!荷は積んだし、これからの航海のための道具もいろいろと用意したんだ!船はいつでも出せるぞ!」
 スズキの声に呼応するように、潮風をはらんだレースのカーテンが大きく膨らみぱた、と壁を打った。
 いったいなんだっていうのだ。なんだよ失くした声って。
 いっそ、裸でも見せれば納得するのだろうかこいつは。
 妙な笑いがこみ上げてくる。
 だいたい俺のような男が人魚なんてまったくロマンの欠片もない話だ。
 だが窓の向こうの空は雲ひとつなく、まあこいつと旅に出るのもいいか、そう思った。
 



                                                                To be continued...