◆9◆

冷えきった手が木の下の蓋を開けていた。生暖かい陽射しを感じた途端、
上半身にどっと疲労がのしかかる。………遠泳の後みたいだ。早く出よう
と思いながら、しかしその瞬間よろめいた体は、手から腕輪を放り出した。
「あ………..」
小さく重い黒色の塊は陽射しをゆるく反射しながら子供達の影とくぬぎの
影の飛沫の間をのろのろと転がってゆく。゛拾わなくては………゛上を向く
のも億劫な頭で、地面に視線を延ばすと、一本の手がゆっくりとそれを拾い
あげるのが視界に入った。よろよろと穴から這い出して鈍く体を起こすと、
光で埋め尽くされて何も見えないような空を背景に、見知らぬ青年が一人、
腕輪を持って木陰に立っていた。
「貴方のですか。」
「…….ええ。」
この辺りの者ではない顔だ。格好も喪服のような黒ずくめで……..牧師か、
葬列者だ。でも、それでいながら俺はその顔をずいぶん昔に見たことが
あるような気がした。
「どうぞ。」
「有難う…….」
近づいて受け取ったその手に、光が透けて通るような奇妙な錯覚を起こす。
しかし青年は俺の不信な目を見ずに、くぬぎを振り仰いで
「いい天気ですね。」
と言った。
「そう、ですか…….」
「くぬぎもそう言っている。」
「…わかるんですか?」
「勿論ですよ。水をよく吸うくぬぎは元気だから人とも喋りたがりましてね。」
「…….」
青年はしばらく上を見たまま、梅雨の間に見えた碧空をたゆたう緩やかな
風に髪をなびかせていた。子供達の歓声が聞こえるのにもかかわらず、
彼を取り巻く空気は不気味なほど静かだ。俺は少し重過ぎるその
気まずい静圧をのけるべく口を開きかけた。が、それより少し早く彼の方が
空気を引き取った。
「だからこそ、人の手が嫌いなのです。手は喋ることができませんからね。」
はっとした俺は青年の顔を見た。青年はなおも黒いベルベットの服と灰色
の髪をシルフの奏でる曲のままに振っていたが、やがて目深にかぶった
帽子の奥から謎めいた瞳をつと、俺に向けた。そうして言った。
「お気をつけなさい。くぬぎが何も喋らなくなったら、彼の中に眠る人にも
会えなくなってしまいます。」
そのまま彼はくるりと背を向けて築地の向こうへ去っていった。俺はその
青年の深い穴の様に真っ暗な背に声をかけようとして、驚いて息を胸に
引き戻した。
彼方へ去る青年の下には全く影が無かった。しかも彼の存在に誰も気づいていない。陽炎のように、ゆらりとひずみ、最後にふっと消えたのだ。後には
ガスがかった白い砂利道と空が広がるばかりである。子供達は一瞬風でも
抜けたかという顔をしたが、本当に一瞬目を動かしただけだった。まさかと
思い、俺は彼の渡した腕輪をもう一度見て、2度びっくりした。
“そんな……….こんなことって………”
スイッチの部分が壊れ、中から草の芽が顔を出していたのだ。

              
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