◆8◆
――帰るんだ、ナギ。 なんだよ、だったらお前も来いよ。その階段
上ればすぐ帰れるんだぜ。 だめだったら。ナミの手を引こうとするその
瞬間にも揺れはまるで巨大な生き物の脈拍のように不気味な波を
水下の足元にまで伝えている。短い押し問答の合間にポケットに手を
やった俺は、いつも持っているナイフをその日に限って忘れてきたこと
に舌打ちした。 どうしよう。 これでは木とナミを離すことができない。
「ごめん、ナイフ忘れてきた。」
「だめだ、そんなことしたらこの木が枯れてしまう」
ナミは更に声をとばしかけたが、しょげた俺に気づいたのか、今度は逆
になだめるように、口調を変えてやさしく言った。
「……明日、またおいで。 腕輪があればまた来られるよ。 ね?」
「あ、……ああ。」
白い指に背をせかすように押された俺は、その幻影のような空間を背の
奥の闇に感じながら、もとの石段を駆け上がったが、その時ナミの言葉
の中にほんのわずかににおった哀しみをかぎとることはできなかった。
見覚えのある木の下は、変わらぬ真昼の短い影がゆらめいていた。随分
長い時が流れた気がするのに、目の前で戯れる子供達は、先程見たのと
同じ遊びを飽くこともなく続けている。築地の破れ目からのぞく隣家の
二階には、今干したばかりの洗濯物が爽やかな風の一陣に
ひるがえった。
……すべては真昼の見せた幻影だったのだろうか。 俺は半分ほど土を
かけて隠したコンクリの蓋を眺め、そうして手の中の腕輪を眺めた。地下
の水音を響かせるような、確かな重さのあることを確認する。結局、何事
もなかったようにその場を離れることにした。 (まあいいさ。 また
明日来ればわかることだ。)
翌日、俺はいい加減な理由を無理やり作って、またあのクヌギの木の下
へ出かけていった。ただでさえ人手が足りないというのに、ここのところ
重要な実験が四つもたまっている最中の早引けとあって、教授に加え、
助手の眼鏡まで鋭かったように思うが、もう知ったことではない。真昼時
をねらって、子供達が昼飯を食べる為に家へ戻りあたりが閑散として来る
頃、スラムに行った。空は光をいっぱいに含み、水色とも白ともつかない
揺らぎを遠くのビルに映している。俺は上着のポケットからそっとナミの
腕輪を取り出した。腕輪は昨日と変わらない鈍い重さのある色で、その
上にはもやのかかったような照りが見える。 そしてスイッチもついていた。
恐る恐る押してみる。 コンクリの動きこすれるごそっという音が、確かに
俺の顔へ下水独特の腐臭を伴って這い上がってきた。
闇の向こうには昨日と同じ九九段の石段が続き、その先には例の、地底
までも続くような仄黒い水流が踊っている。 ためらいなくその中に水音を
ばしゃばしゃと飛び散らせながら、胸の内を流れる水流は、昨日の出来事
が夢でないことを確認したがっていた。 (あと三歩……二歩……一歩。)
壁に滑らせる右手のうちに取っ手がとびこむ瞬間を、俺は逃さなかった。
一秒も惜しいと言わんばかりに、五指が取っ手を動かす。
「あ……」
相変わらず、ナミは木につなぎとめられたままだった。 祭壇の奥を照らす
ステンドグラスは、彼女の輪郭をやわらかく水流の作る線の中に落として
いる。 しかし、似ているようで少し違うようにも感じた。 なぜなら、天井
から張る木の根が更に延びてナミを囲んでいたからである。棺からあふれ
る水も、心なしか昨日より少ないように思えた。
「……やぁ。」
ナミは眠いような顔を少し傾けて俺に微笑した。ちらりとだけ俺には、ナミ
が疲れているように見えた。
「ごめんね。 昨日は追い返してしまった。」
「いいよ、別に。」
(見ろ。 やはり夢じゃなかった。 俺は生きながら地下墓地に来たんだ。)
心のどこかでそんな声がした気がしたが、それはすぐ、ナミの惑うような
目線に打ち消された。
「どうしたんだよ、ナミ……」
ちょっと、腕輪を見せてもらえないか、とナミは手招きをした。何だろう……
いぶかしく思いつつも、俺は水をかきわけて、左手に大切に握りしめていた
腕輪を手渡した。 ナミは暫くその中のスイッチを眺めていたが、やがて
ぽつりと、
「ナギ。 私と君は、仲良しだったよね。」
とつぶやいた。
「何言ってんだよ、いきなり……」
「昔はね、クヌギの木はいっぱいあったそうだよ。どこにもかしこにも……」
ナミは俺の疑念を押しとどめさせたまま、ステンドグラスを向いて
つぶやいた。その中にある大樹に抱かれた地球が、青ではなく、赤っぽく
見えると俺はぼんやりと思った。
「でも、いつの頃からか、急に枯れだした。 水がひどく少なくなってね。
干からびた地下墓地はやがて闇に埋もれて消滅する。墓地がなくなって、
クヌギも消える。」
ナミは腕輪を、はい、と言って俺に返した。手の中の腕輪に、彼女の熱は
感じられない。
「……ちょうどその頃、おかしな腕輪をつけて墓地を歩く人間が多くなった。 ……今の君のように。」
最後の言葉には、独り語りにしては異様に強すぎる毒がこめられている
ように感じ、思わず俺はハッとしてナミを見た。ナミの表情は俺を見つめて
悲しげだった。
「彼らの去った後は、地下墓地ももぬけのカラだ。 墓守はおこって彼らを
追い出すようになった。」
「ナミ……?」
ナミは昨日のように、俺の手をすっ、ととって、自らの指を絡めた。そうして、
なすがままにされている俺に、
「ねぇ、私はここにいるよ。」
と、小声で、しかしはっきりと口にした。 ナミは俺の一番言いたかったこと
を知っていた。俺はギクリとしたが、説得を試みようと、必死に口を開いた。
「ナミ、あのさ……」
「君は私をここから出して地上へ連れて帰りたいかもしれない。でもそれは
だめだよ。 もしそうしたら私は永久に君に会えなくなる。」
俺のズボンの左ポケットに忍ばせたナイフが、その瞬間、空しい冷たさを布
の上から俺に感じさせた。
「……会いたければ君がここに来るしかないね。」
「それで腕輪を俺に渡したのか?」
「……いや、ちがう。 腕輪のことは私もここへ来てから知った。」
……なら、どうして俺にこれを渡したんだよ、お前の考えていること全然
わからないよ、憤慨しかけた俺の右肩にナミが静かに顔をうずめた。
俺の体はとまどって少し震える。 しかしナミの白い片手が俺の首に
回って、俺を放さなかった。 そのまま俺の顔を見ずにナミは続けた。
「私がスラムへ流れつく前のことだ。 母さんがこの腕輪をくれた。母さん
は母さんの母さんからもらったそうだよ。」
「……。」
「母さんが死ぬ前にこれをよこして言ったんだ。いつかきっと、この腕輪が
幸せの住む国へ持ち主を連れて行ってくれるよって。 ……記憶はそれ
しかないけれど……」
小さくなった語尾は俺の耳に入らなかったが、彼女の顔が小刻みに震える
のがわかる。 泣いているのかもしれない。 そんなナミは、不意にただ
ひどく幼い、かぼそい女の子に映った。
「だから、君に渡した。文無しの私が唯一君にあげられる幸せだよ。……
でも知らなかったんだ。 この腕輪はクヌギの木を枯らしてしまう。」
「……どうしてそこまでクヌギにこだわる?」
俺の問いも、顔を上げずにナミは答えた。
「私達はみんなクヌギから生まれてクヌギの元へ還るんだ。クヌギが死ん
だら君と会うことはできない。…それより何より、彼は優しいんだよ、
誰よりも……」
不満を感じながら、それは言葉にならなかった。ナミの決心に俺が何を
言えるというのだろう。
「じゃあ……俺が腕輪を使ってここへ来るのはいいのか?」
「……だめだよ。 墓地の水が涸れてしまう。君自身がたどり着かなくては
いけないんだ。」
生身で来ているって知らなかったよ、意識だけがやって来たと思ってた…
…肩の中に涙をさまよわせるナミの声は、クヌギの木が言わしめる言葉
にも聞こえた。 泣くなよ、そんなに、そういいかけてナミの頭に触れた
瞬間、昨日のように部屋がドクンと大きく鼓動した。
「……墓守か。」
俺を直視しないようにしながら、ナミはゆっくりと顔をあげた。
「君を見つけたら墓守は扉を閉めて封印するだろう。そうしたら君は地上に
戻れない。永久に。早く帰らなくてはダメだよ。」
「俺はどうやってまたお前に会えばいい?」
次第に揺れは大きくなってゆく。必死で尋ねるとナミは首に回していた
手を動かして俺の髪をなでた。
「この中に流れる水は君にも繋がっているんだよ。想いの持つ…………
涙の河なのだから。」
その後彼女は何か言おうと口を開きかけたが、もはや壁のきしむ音がそれ
を覆い隠していた。先ほどまで清水を吹き出していた黒い棺でさえ、揺れ
ながら血を吐くかのようにどす暗い濁った流れを漂わせ始めている。危険な
空間の中でまだ美しい光を放つステンドグラスを掴もうと、俺はナミの耳に
口を近づけた。
「きこうと思ってた……どうして独りで死んじゃったんだよ……」
当然じゃないか、とナミもやはり俺の耳に口を近づけた.。
「誰だって、笑顔だけ覚えていて欲しいんだよ。大好きな人にはね……..」_____ねえ、ナギ。私たちは、仲良しだよね。
耳たぶに一瞬、本物と言ってもおかしくない温かい息を感じたその時、
今までで一番ひどい揺れが来て、よろめいた俺の体はナミから引き離
された。白く冷たい指がするりと俺の腕をつたって落ちる。はっとしてナミを
見つめると、ナミはびっくりするほどやさしく顔を傾けて微笑んでいた。涙で、
ぐちゃぐちゃの笑顔で。しかしその表情はもうここにいてはならないと
はっきりと語っていた。はじかれたように俺は部屋を飛び出した。背を向け
ようとする僅かな間にナミが口を開いて何か言ったようだが、ゆっくりと
閉まりだした扉をすり抜けなければと焦っていた俺にはわからないこと
だった。外を流れる水は、台風後の濁流のように不気味に暴れて押し寄せ
てくる。その中を割ってびしょぬれになりながら、俺は手にきつく握りしめた
腕輪にナミの笑顔を感じていた。聖堂に抱かれ、俺を中吉田と言った
ナミの。そうして、あの世へと続く階段の上から漏れ出る光が大きくなる
頃、ようやっと別れ際のナミの、届かなかった言葉の破片を胸の内に
広げた。彼女の口元をなぞって浮かび上がった言葉は、ただわけの
わからない悲しさの火を肺の奥に灯した。
_____大好きだよ、永遠に。だから、…………
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