◆5◆
※
開け放してあった木戸を静かに、静かに閉めると、あのクヌギの木が
真っ先に俺に手を振ってきた。
「相変わらずなんだな、お前ってやつは。」
お前の友達、いなくなったんだぞ、わかってんのか、そんな俺の嫌味の裏に隠れた不平も全部知っているよぅ、とでも言うかのようにざわめいた
木に、俺は苦笑してポンポンと軽く幹を叩いた。
「……あいつが何考えてたのか、お前は知ってるんだよな、きっと。」
俺はナミみたいにお前としゃべらないからわからないけどさ、そうつぶや
いて、俺は何気なく、生前のナミがそうしていたように木の幹にぼんやりと
もたれて、目の前に遊ぶ子供の輪を眺めた。 子供たちはきっと、まだナミ
の死を知らないのだろう。 無心にうかべる歓声は、もうすぐナミがこの場に
現れる事を期待して疑わないかのようにも聞こえた。
ナミは不思議と小さい子に好かれた。 わけへだてないからということ
はあったろうけど、でもそれ以上に何があるわけでもない。 引き取られ
たあの家も貧しくて、学校にも行けなかった。 だが幼い子供達は、ナミを
慕っていた。 彼らに向かって、ただ黙ってほほえむばかりだった彼女を。
俺にはそれが少しうらやましかった。 嫉妬もあったろうが、何より、何も
持っていないはずの彼女が、そんな風に無限のやさしさを与え、与えられる存在である事が不思議だったのだろう。
そのナミは、いつもこの木の下に立っていた。 相変わらず、クヌギとともに、
彼らにしかわからない会話をしながら俺をただ静かに待っていた。
姿を見つければ、きまってあの腕輪をはめた方の手を振る。 学校を卒業
した時も、親にしかられて家を飛び出した時も、工学院に入学した時も、
駆け足でやって来た俺を、その右手は自然なやわらかさで出迎えてくれた。
思い出すように、確かめるように、手の中の腕輪を空にかかげて透かし
見る。六月の空に宿る光と新緑を閉じ込めた丸い世界に、まるでナミも映
るかのように錯覚した自分に気づいて、思わず俺は恥ずかしくなった。
(何を考えてるんだ。 もうあいつは死んだっていうのに。)だが白い骨つぼ
さえ目の当たりにしたのに、あの時涙の一つさえも流れなかった。そこ
まで自分は薄情だったのだろうか。 いや、少し違う。 悲しくないわけ
ではないのに……。 わからなくなって俺は腕輪を両手の中で転がした。
飾りっ気のない、囚人の手かせみたいなそいつは、どんな材質なのか
俺にもわからず、ただひんやりした硬さを教えるばかりである。
ため息をついて上を見ようとした俺の目の端に、一瞬妙なものが映った。
(?)腕輪の内側に、何かのスイッチらしきものがある。 一体何だろう。
何気なくそいつを押した瞬間、何か地面の……土のすぐ下で、ゴトリと
石をのけるような音がした。 ハッとしてその音のした場所を見た。
木の壁側の根の下、不自然に盛り上がっている気がする。 考えるより
先に両手の好奇心がその場の土をかきわけていた。
(あ……。)
それは白い二つのコンクリの蓋だった。 人が一人入れるくらいの大きさの
穴を、そのすき間に見せている。 行かない方がいいのではないかという
警告の声をあえて無視して、俺は誰もこちらに注目していないことを確認
した後、その蓋を開けて闇の中へ一歩を踏み出した。
※
入口からずっと続く狭い階段は、明りもないのに俺の目にははっきりと見えた。昔あった下水道跡なのだろうか、そういう思いも、下り二十段
をこえる頃には消えうせて、ただ怖さ半分の興味が俺を暗がりの深部へ誘
っている。整備されたのではない、角のとれた巨石でできた階段は、靴
のかかとの硬いリズムを次第に小さくし始めた。 それと同じくらいから、
巨石のつぎ目に水のしみ出す時の独特のにおいが鼻の周りにさまよい
だす。三十段をこえる頃には、石に見えるしみははっきりとした水の流れ
を作っていた。
“まるで冥府に続く、河のようだ。”
数えてきっかり、九九段目に石段は終わりをつげた。 見上げた頭上の
漆黒の上にも、もはや入口の光は針の穴ほどの点にしか見えない。
代わって、足元には膝下まで少し速い水の流れが覆っている。 そして、
その流れの描き出すドォォンという滝のような音は、その場の空間の広さ
を反響にして返しながら、前につづく闇の中へと吸いこまれていった。
足元のおぼつかなさに惑いながら、俺は壁と思われるところに右手を
沿わせて、そろそろと前へ進んだ。 下水に生える藻の上を掌が通り
ぬけ、かすかな数字の刻まれたくぼみが過ぎてゆく。
(___何だ、やっぱり下水だったのか?)
足のようにゆらぎだした心が回れ右をするより早く、壁をなぞる手が一個
の扉を探りあてた。 壁と同じ材質だからわかりにくいが、この取っ手は
確かなものだ。 鍵穴はない。 更によく目をこらすと、扉の下には空きが
あって、水の一部がそこから中へと入っている。 ためらわずに俺は重い石
の扉を手前へ力いっぱい引いた。 そうして、開けた目の前の光景と、その
真ん中にいてこちらをふり返った人物の顔を見て、思わず魂をとり落としそうになった。
「……ナミ?」
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