◆3◆

小路の行き止まりの壁ぎわから伸びた大きなクヌギの木は、人の営みに
一体化しながら、しかしまるでそれを知らないとでも言うように、ゆらめく葉影
を大空に振っている。どのくらいの昔からそこにあったのか知らないが、不思
議にも空襲の際に焼失することなく、また申しわけ程度しかないはずの
土道からただ一本、太い幹に、耳をすませばきこえそうなほどの水流を豊か
にたたえていた。焼け出されて一面荒野となったこのスラムに一番に帰郷
した人が最初に見たのは、瓦礫の山に超然として貯立するこの木で
あったそうだ。 幼い頃、まだここへ越してきたばかりのときも、この木は
真っ先に俺を見つけて、不可思議な時のまわる空間へいざなった。
コーヒーを買ってこいと言われて外へおいだされたら、道をまちがえて
とんでもない所へ来てしまったんだった。夏の初めの暑い日で、目の前に
ある長屋には不釣り合いなほどバカでかい木の周囲には、同年代ぐらい
の子供がはしゃぎまわっている。 その中に一人、ぽつねんと木の前に
たたずむ変な女の子がいた。 周囲の子よりも一等貧しいなりをしたそいつ
は、児戯には目もくれず、ニコニコとしながら木と対話していた。……ように
見えたのだ。思わず不審の目で見つめてしまったらしい。少女がくるりとこちらへふり向いた。
「……。」
何を言うでもなかった。 きまりが悪くなったので、ゆっくりと近づいていって、
「オマエ、何やってんだよ。」
とたずねると
「きこえない?」
と逆にききかえされてしまった。
「きこえない……って、何が」
「クヌギの木だよ。 君にこんにちは、って。」
どう考えてもまともを言っているようには聞こえなかったが、気がふれた
やつにも見えなかった。俺が幼かったせいもあるだろうけど、少女にはきっと、
俺に見えないものが見えているに違いない。 記憶の許す限り、生まれて初
めて見たその巨木は、俺にそんな無茶な解釈をやさしく信じさせた。
「……こんにちは。」
おずおずと木に声をかけた俺に、少女は
「わたしとも、だよ?」
と微笑みかけ、手をのばした。 ああ、その腕には、少女の細さには重すぎる
ような金属の腕輪がはまっていた。 数年の間俺を導いた、そのかぼそい
腕の所在は今はなく、代わってその場所には、俺の姿をどこからか見つけた
ナミの養父が、小走りにかけよってくる。
「……ナギさんですな、いやよく来てくれました。 待っていたのですよ、
さあこちらへ……」
――これが現実と呼ばれる空間なのだ。 そしてそれは俺の意識の呼吸
と必ずも一致しない。 見慣れた老人の後について木戸をくぐる自分の
身体を機械人形のように思いながら、俺の心は無意識に、緑陰に立つナミを
探していた。

             
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