◆2◆
六階の実験室をとびだしてから小一時間ほどして、俺はX区の廃墟の人ごみ
の中をゆっくりと流れていた。 あのうすい空からは、いつの間にか、短い
梅雨の晴れ間が見えている。今日のこの時しか知らないだろうこの様々な
種が、明日はどんな憂世の島に流れつくのだろう。ナミの死がまだどこか
実感しきれない俺の心は、そんなぼんやりした思いを周囲のざわめきに
おとすばかりで、ただ足だけが行き先を知っているように動いていた。
大戦後のスラムは、痛々しい。俺の通っている工学院のあたりは、最近
じゃやたらとおキレイなビルが建てられて、数十年の悪夢なんてなかった
みたいな顔をしているけど、X区はあきらかに復興が遅れていた。瓦礫の
中、わずかに残った家壁を背に露店の売り声をはりあげる人の顔さえ、ど
こか声とは逆の空虚さを見せてもの哀しい。 家壁の芯になる針金が焼けて
折れ曲がって露出している上に、カラスが止まっているのが妙に俺の気をひ
いた。
ナミの家は、そのX区の入りくんだ路地裏の、さらにどんづまりにある。彼女
は戦災孤児で家はあいつのじゃあなかったけど、とにかくそこに行くまでは
やたらややこしくて、目まいを覚えてしまう。あのクズ屋の角を右に曲がって、
アサガオを売ってる露店を左に曲がって、それから臨時の仮設郵便局を
裏手に回ったろうか……。 似たような場所をぐるぐると回った揚句、よう
やっと見覚えのあるタバコ屋が見えてきた。あのわき道を右に曲がれば、
たしか古い木戸が現れるはずだ。 タバコ屋の中から古びたラジオが雑音
まじりの流行り歌を躍らせるのに気をとられていた俺は、その瞬間、わき道
からとびだしてきた二人の子供に気づかなかった。
「あっ……」
軽くひざを押される感触の後に、青空に白いボールがはねるのが見えた。
反射的にそれを片足で受けて手にとる。 汗にまみれた衣を着た少年と
少女がためらいがちに俺のところへ近づいてきた。
「……ごめんなさい。」
見たところ七、八才くらいだろうか。 素直な瞳の色に負けた俺は、普段は
忘れていた微笑をぎこちなく作ると、そっとボールを手渡してやった。宝石を手
に入れたような顔で、おかっぱ頭の少女がそれをうけとると、二人はまたき
びすを返して小路へとかけてゆく。 暢気なもんだ。 ……俺とナミが会ったの
もあれくらいの時じゃなかったっけ。でも何で出会ったのか思いだせない。ぼうっとしながら渋茶色に錆びたポストのわきを一歩ふみだすと、
そこには場違いな鮮やかな翠色が大きく俺の視界を覆った。
(あ……)
そうそう。 確かこれだった。
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