酔仙郷第1話・死者を抱く木

◆1◆
諸国行脚の旅法師、遠野聖(とおのひじり)が何某の山中で会うた厭世
の仙人、西方散人に聞きたる話。
※
――それでは散人、貴方は三界に座すすべての過去、現在、未来を御
存知なのですか?
私がそう問いかけると、まだ童にも見えるその人は、艶のある白磁の
きせるをプカリとふかしてゆっくりと笑った。
――ああ、私の魂はこの世の中の幾多の大陸を渡った。そこに流れる
水も、雲も、人や風のただようも見た。多くの事を知ったに違いない。
そしてこれからも知る術を持っている。しかしね。いくら私とて立ち
入ってはならない場所もあるのだよ。
_______________そしておそらくは聖よ、貴方もな――
※
二、三日はここへ来るな、病床のナミにそう言い渡されてからきっかり四日
目の朝に、彼女の死の知らせが俺のもとへ届いた。前々から弱っていたか
ら覚悟はしていたけれど、来るなと言った彼女の真意は今もって俺には理
解できない。ガスクロマトの中の試料をいれかえながら、机上のハガキを
目の端で眺めた。粗悪な薄い紙の隅には、なお薄いインクで申し訳なさそう
に、死亡の通知が、通知だけが書いてあった。
無性にイライラして窓の外を眺める。雨上がりの曇り空は、動くこともなく都会
のビルの林に吸いついていた。ぼうっとした部屋の電灯に、少し霞んだその
殺風景を十秒ほど凝視すると、俺は思い切って勢いよくペンとノートをかばん
に放りこみはじめた。傍らでパソコンにむかっていた教授がふりむいて、
くもった眼鏡の奥から声をつりあげる。
「……どうした。 まだデータはとり終わってないのに……」
「すみません、用ができたので失礼します。」
計器のガラスにうつった空からは、乾いたハトの鳴き声しかきこえてこない。
しかもその声は、どんよりした灰雲の向こうの冥府を呼んでいるようだった。
“やめろよ……。”
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