◆12◆
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その後一週間ほど、遅れをとっていた論文のための実験で、俺は研究室に
缶詰状態になっていた。共同研究仲間の某先生のところへ次の実験の
打ち合わせに行っていたコウ教授が時々俺の様子を見に来たけど、
知らん顔でパソコンの相手をしていた気がする。土曜の早朝に俺は
思いっきりせいせいした顔をしてレポートを提出した。教授は珍しくまじめ
に実験を行った俺を見て、何か言いたげにちらりと眉を動かしたが、
腫れた目の下にクマまで丁寧に作って仏頂面をした俺を見て、そのまま
ふうっと息を吐き、一言「御苦労。」とだけ言った。俺もただはいと頷いて
さっさと部屋を後にした。
隣の部屋にある学生用の物置(?)部屋を整理していると、山積みになった
専門書のてっぺんから、古い緑色の表紙の本が転がり落ちた。
「おっと…….」
あわててキャッチすると、朝もやの中に、表紙のけばだった繊維が少し
揺らいで見えた。ここのところ寝不足して少し目がかすんでいるせいかな。
苦笑するとさっき淹れたばかりの珈琲を片手に、しばしその本の表紙を
見つめた。挽きたての濃い匂いが鼻先へふわりと昇ってくる。この本に
ついてはちょっと面白い話があるんだ。都内の図書館の本で考古学者
志望の知り合いがおもしろいから読んでみろとまた貸ししてくれたもの
なのだが、世界中のもう滅んだ民族の残した伝承を集めた本なのだ。
その中にその昔、生きながらにして黄泉へ渡る術を手に入れた部族の話
がある。某国の密林の奥に人知れず小部落を築き、石の家と木札の山を
残して消えたその民は今では幻影一族と呼ばれているが、黄泉へと続く
道を我が物にした直後から急激に人口が減り始め、部族最後の一人は
発狂して海へ落ちたという。なんとも皮肉のきいた話だが、今の俺には
容易に頷くことができた。きっと彼らはくぬぎの木に住む死者を石に変えて
しまったのだろう。あるいはその前に、水が枯れたのかもしれない。表面
でセピア色の泡がくるくると回る珈琲の端を一口含んでゆっくりと喉に
転がすと、真横から射す陽光の中に息を吐く。目には見えない筈の
微かな残り香は、しかしかび臭い本の匂いと交じり合って不思議な薫煙
を解き放った。近所の顔なじみの珈琲店が置いているソラというこの珈琲は
珈琲には珍しく軽い口当たりで、飲み後はどこかさわやかな南海の青
を想像させた。
午後になると、俺は先輩のキックボードをかっぱらって、久しぶりにあの
スラムへと出かけていった。糊をきかせた黒のシャツの胸ポケットの中
には、勿論ナミの腕輪が入っている。この腕輪とそっくりのものを作った
という学者のことについては結局あれきり何もわかっていない。ナミと
もしかしたら何か関係があるのかもしれないが、今の俺としては、そんな
ことを掘り起こすのではなく、静かにナミを眠らせてやりたかった。
今日の夜から始まる季夏の祭りに向けてあちこちでにわかに店が並び
だす中を走り、風を含んだ俺の髪は四方に揺れながらただ一つの巨木を
目指す。金魚すくいの親父がプールを張る横をすり抜けると、屋根わきに
つるしてあった風鈴が爽風に抱きすくめられてリィ……ンと軽やかな嬌声
をあげた。
“そういえば梅雨ももう終わりだな。見ろよナミ。…………..もうすぐ夏が
来るんだ。”
クヌギの木は昨日の夜半の雨をまだ身にまといながらも、その露を光の
七色に変えて、清々と風の中に舞っていた。打ち合う青い葉の数々は、
深山に流れる滝の音にもどこか似ている。木の下に立つと、腕輪を握った
手の中に、ぼやけた影と長夏の始まりを告げる熱射が激しく交わる。
そしてその中で腕輪は、今また静けさを取り戻して俺の掌に眠るように
収まっていた。……今日のために分解したこいつを、形だけまた元通り
にしたのだ。何としても、この事はこいつとナミに知っておいてもらわなく
てはならない。俺は静かに眼を閉じて風を一陣、ゆっくりと吸い込むと、
少し吐き、右手にこめた力と肺のリズムが重なったその瞬間
_____碧葉の狭間にうかぶ快晴に向かって、思い切り腕輪を
放り投げた。木の葉の露に隠れながらも、鈍い光は彼方へと美しい弓月
を描いて消える。それを見届けると、俺はゆっくりともと来た道を引き
返した。十分ほどしてくぬぎがよく見える郊外の小さな丘まで来ると、
俺はそっと振り返り、遠くにすっくと立つ齢万年の精霊を眺めた。少女を
抱くその木はこれからもそこにあるだろう。静かな再会の時を二人で
夢見ながら。でもその日が遠い未来ではないことを俺は知っている。
……そうして、彼らの前では照れくさくて言えなかった事を、幽草の空に
なびくざわめきに紛らせて、そっと呟いた。
「悪かったな、ナミ。俺はもうこんなもんにすがってお前のところへ行くのは
やめにするよ。何度でも、またお前に出会うことができるように、
____今度は俺の中に流れる水を辿って、あの地下墓地を
見つけてみせるから。」

※
______それで散人よ、その後木はどうなったか、貴方は御存知ですか?
散人は相変わらず白磁の煙管をふかしながら、独り言のように言を宙に
浮かした。
__さあな、その後スラムも埋められることになって、恐らくはナミの
あの木も切り倒されただろう。冥府への扉は永久にわからなくなった。
しかし、そんなことはもういい事だ。何もなくとも、ナギはもう一度
自らの力でナミに廻りあったにちがいないのだからね。
………聖よ、少し陽射しが強すぎはしないだろうか。木陰に入られよ。
もしかしたら貴方の選ぶその木が、人知の及ばぬ幽玄の世界を
知っているかもしれないし…………………
(死者を抱く木・完)
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