■The Move Era 1966-1968■
The Moveのファースト・ギグは66年1月だといわれている。
その1〜2ヶ月後には当時Moody BluesのマネージャーだったTony Secundaがわざわざロンドンから彼らを品定めにきており、その後マーキーのオーディション―しかもThe
Whoの後釜という大きなチャンスを従えてやってきたのも、それからわずかの事だった。
彼らはマーキー・オーディションのため颯爽とロンドンへ出向き、Tonyとそのパートナー、Rickey Farrの前で数曲をプレイした。即、OKサインが出たということは言うまでも無いが、そこでのRickeyのアイディアがAceのその後を道すじを変えることになった。
「君たちは素晴らしいバンドだ。だけど中心に立つ人物が必要だと思うね。それは・・・彼だな。ブロンド・ヘアーの君にそうなってもらうよ。」
RickeyはAceを差して言ったという。
彼らはすでにバーミンガムのトップ・グループを経てきた(地方の)スターだった。全員がロンドン/マーキー・クラブのステージ中央に立ちたがったのは当然のことだろう。
Aceは「The Moveの腐敗はその時に始まった」と言う。
RickeyとTonyはその後、事あるごとにAceを他のメンバーから引き離した。
初期のThe Moveのフォトグラフを思い起こせば出せば頷けるだろう。
'Ace The Face'― ベーシストというポジションにもかかわらず、彼はほとんどの写真で中央に立ち他の誰より目を引いている。
フロント・マン、Carl Wayneとの関係はみるみるうちに悪いものへ変わっていった。
マーキーでThe Whoの後釜としてセンセーショナルにデビューした MoveはThe Whoに負けず劣らずの過激なショーを売り物にしていた。それらはすべて敏腕マネージャー・Tony
Secundaのアイディアだったが、攻撃的なステージは、ヒトラーの写真を張りつけたTVをCarl Wayneが斧で滅多切りにぶち壊し、煙がもくもくと上がりついにはマーキーの前に消防車を待機させるほどであったという。
Tonyの指図により、Carlは決してステージでジョークを発することはなく、メンバー全員一瞬たりとも笑顔など見せはしない。10年後Malcom
McLarenが同じ場所で同じように若いバンドを操った、それと同じように、バンドイメージはマネージャーの意図とするままに仕上がっていった。
メディアはまだレコード・デビューすらしていないこの荒くれたバンドをさらにエキサイティングに書き立てた。すべてがTonyの思惑どおり。The
Moveの名はロンドン中に知れ渡り、満を持してレーベルとサインを交わすことになった。
66年12月、DERAMからリリースされた1stシングル「Night Of Fear」はTonyの狙いどおりいきなりチャートで2位。
ギャングをイメージしたファッションとルックス、激しいステージ・アクト、すでにトップ・グループで十分経験してきた彼らのテクニック、デビューシングルでオリジナルソングをヒットさせたロイ・ウッドのソングライティングの才能・・・
全てが備わったThe Moveはロンドンでも『スーパー・グループ』として扱われたのである。
67年6月、The MoveはドイツのTV番組「Beat! Beat! Beat!」に出演し「Night Of Fear」「I
Can Hear The Grass Grow」「Walk Upon The Water」の3曲ををプレイ、今だその映像が残っている。
その時のAceは(というよりThe Moveの5人全員が)若く溌剌と自信に満ち溢れていて、その姿はほとんど神々しいほどであった。フロントの4人が横一列に並んで、ボーカルパートを次々にバトンタッチしていく。まさに初期The
Moveの醍醐味がここに終結しているといった様子である。
中でも独特なAce Keffordのステージ・アクト。彼を写真でしか見たことがなかった人は皆驚くだろう。華麗ともいえるあのときのAceは、おそらくあの時代もっともクールでもっともスマートでもっとも完璧だったに違いない。
レーベルをREGAL ZONOPHONEに移籍し、The Moveはまだまだ好調に見えた。が、しかしTony
Secundaは67年9月リリースのシングル「Flowers In The Rain」にあるオマケを仕掛けることを企んでいた。彼は当時の英ウィルソン首相が秘書といかがわしいポーズを取っているポスト・カードを発注し、まずはメディアに、果ては首相官邸にまで送りつけたのである。
首相はThe Moveを告訴した。がしかし、その時点でメンバーはポストカードの存在すら知らされておらず、事態が深刻になって初めてその事情を彼らは説明された。結局その事件は本当に裁判に発展し、結果シングルのロイヤリティを全て慈善事業に寄付するという条件で決着がついた。
無実の彼らがメディアに駆り出された。Tony Secundaの度を越したプロモーションの結果であった。
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AceとTrevor BurdonはJimi Hendrix ExperienceやPink Floydのメンバーと親交が深かった。(当時TrevorはNoel
Reddingと共に住んでいた説もあるほど。)
中でもJimi Hendrixはずっと年下のAceを可愛がりつつ、深く評価もしており、後にJeff Beck GroupのベーシストとしてBeckにAceを推薦している。
JimiはAceに会うといつもAceの髪をくしゃくしゃにしながら「What's Happenin',Ace?」といって、ふてくされた顔のAceを茶化したそうだ。
「Flowers In The Rain」事件直後に始まったJimi Hendrix Experience、Pink Floyd、The
Moveでの長いツアー。これを期にThe MoveからAceの精神が離れ始めたと言ってしまっていいだろう。
あのマーキー・オーディションの午後からグループの中に渦巻いてきた嫉妬と憎悪。トップ・グループそしてポップスターというプレッシャー。
まだ歳若く、決して強い精神とはいえなかったAceの中に、ひどいパラノイアが生じていた。その背後はまさにスウィンギン・ロンドン、フラワー・ムーヴメントの時代。
レコード・デビュー直後から徐々にドラッグに手を染めはじめ、67年の末には毎日のアシッド(LSD)に大麻、阿片、コカイン…常にドラッグに頼らずにいられない状態になっていた。顔は蒼白で頬がこけ、体はガイコツのように痩せ細っていた。
ツアーで地方に出ればホテルの外で「Ace!Ace!」とファンが叫び続け、 Tony
SecundaはAceひとりだけのフォト・セッションのリクエストを次から次へと持ってくる。その都度巻き起こる口論。
一方ではJimiやSyd(Barrett)との交流があり、ポップイメージを貫くThe Moveとのギャップに戸惑い、ドラッグの深みに日々吸いこまれるまま、私生活ではThe
Vikings時代から付き合っていたガールフレンドJenとの間に男の子が生まれていたのである。
ある時、ロンドンから200マイル先のコヴェントリーでGIGがあった。Aceはひとりでフォト・セッションの仕事を終え、タクシーに飛び乗り急いでリハーサルのためスタジオへと向かった。彼がドアを開けた瞬間、リハーサル中だった4人は背を向け楽器を置きその足でバンに乗りこみ、200マイル先のコヴェントリーへ。GIGをこなし、ロンドンへの帰途がまた200マイル。その間、Aceは無視され続け、誰も彼と口を利くものはいなかった。
これはたくさんのエピソードの内のひとつだろう。ドラッグによる被害妄想では?そう捉えられることも多いかもしれない。(事実、Trevor
BurdonはAceが最初にこのエピソードを語った数年後に「Aceは車の中で『誰も俺に話しかけてくれない』と独り言を言っていた。」と弁明するかのように語っている。)
しかし、これはAce自身が語ったエピソードである。ここでは彼の言葉を信じよう。
68年3月には1stアルバムがリリースされた。1曲目を飾った「Yellowe Rainbow」は長い間Aceのリードヴォーカルだと言われてきたが、近年それが間違いだったとわかった。2ndシングル以降、彼のヴォーカル・パートはぱったりと減っていたのである。Roy
Woodはともかく、Trevor Burdonのリードヴォーカルの数を思うと、Aceがいかに歌う事を阻まれていたのかを痛感することだろう。
しかし、"Ace Keffordはヴォーカル・パートが少ないことへの不満を理由にThe Moveを脱退した・・・"と現在も語られているが、実際はそんな単純な経緯では決してなかったのである。
68年の4月。ある日リハーサルの最中、スタジオでAceはベースを壁に向かって激しく叩きつけた。そしてその場を去り、ニ度とThe
Moveへ戻ることはなかった。
自宅へ戻ると、彼は自分自身をバリケードで囲んでから、手首を深く切り裂いて壁を血で染めた。すぐにJenに発見され、病院へ運びこまれて一命はとりとめた。(―その行動にドラッグの影響があったことは否定できない―)
意識が戻ってAceが知らされたのは、同情にかられたCarl Wayneひとりが病室に現れたということだけだった。
これがAceにとって最初の自殺未遂。
このときAceはまだたったの21才であった。
彼がThe Moveであったのはたった2年間。
レコード・デビューから数えると、彼がポップ・スターであった期間は1年半にも満たない。
このたった2年間が、Aceのその後20年間を狂わせる事になるのである。
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