クリストファー=ジョン・ケフォード 
Christopher John Kefford
December.10.1946. Birmingham,England

■-1965
■The Move Era 1966-1968
■1968-1969
■1970's
■1980's
■1990's -The Present

このバイオグラフィについて


■―1965

 The Moveにおいて、Ace KeffordとTrevor Burdonだけが労働者階級の出身である。他の3人はもう少しアッパークラスの家で育った。
バーミンガム Yardley Wood Modern School。やはり良い環境とはいえなかったその学校で、ジェームス・ディーンのスタイルを真似ながらギャング団まがいのグループを作り、そこらの店からタバコをくすねたり等々…必然的にAceはいわゆる不良少年に育った。

そんな学校の仲間たちと結成したスキッフル・グループがAce Keffodの最初のバンドである。イギリスはその頃スキッフルブームの真只中で、グループには後にMoody Bluesとなるメンバーも含まれていた。この頃Aceが初めて手にした楽器は父親に買ってもらった練習用の安値なベースだったという。

スキッフル・ブームが下火になり、Aceはひとつ
年上の叔父・Chrisと、Shadowsなどのインストゥルメンタルをカヴァーするバンド、Chris&The Shadesをまずは結成した。それからすぐ、もうひとりの叔父のRegがヴォーカリストとしてバンドに加わりSteve Faron Reg in Gold Rame Suit&The Shantels(笑)と名を改め、パブ・ギグのステージに立つようになる。
ちなみにこのふたりの叔父は、少し後にJohn Bonhamと同じバンドでプレイすることになるらしい。

Aceの父親がピンクのフェンダー・ベース・ギターをローンで購入し(Aceの為かどうかは不明)彼はそれでもってJet Harrisを気取り颯爽とプレイするようになる。この頃から'Ace The Face'と呼ばれ得る「素質」が彼にあったのかもしれない。Ace 16才の頃である。

63年12月リヴァプールから新しい波が押し寄せ始めた頃、The Shantelsは解散し、AceとChrisは共にDanny King&The Jestersに加わった。
このDanny Kingが、叔父=ChrisとAce=ChrisがややこしいとAce=Chrisに違う呼び名・ニックネームを、という提案をし・・・そして彼は 'Ace' と呼ばれるようになった。

この頃叔父Chrisと曲作りにも挑戦し始め、バンドでは既にソロのヴォーカル・パートを持って歌う事も多かった。それはこの後のThe Vikings在籍時も同様であった。

Aceは、かつてCarl WayneとふたりでThe Vikingのヴォーカルを二分していたKeith PowellのバンドThe Valetsのサポートを経て、ついにCarl Wayne&The Vikingsに正式加入した。
The Vikingsは名実ともにバーミンガムのトップグループだったが、スーツにネクタイを絞めてヒットソングのカヴァーをプレイ、その洗練された慎ましいバンド・イメージに
Aceは初めから嫌気がさしていたらしい。
Bev Bevanをドラマーに迎えた直後、
The Vikingsは他の多くのグループと同様ドイツ遠征も果たした。

The Vikingsは
ブラム・ビートの代表格としてPYEとAtlantic・レーベルから計3枚のシングルをリリースしたが、結局ヒットと無縁で終わることになる。

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 65年のある晩、セダー・クラブ(この頃バーミンガムで最も有力だったクラブ)でAceと、Danny King&The Mayfair Setに在籍していたTrevor Burdonのふたりは、まだDavy Jonesと名乗っていたDavid Bowieと「自分のバンド」の魅力について語り合ったという。


その直後、まるでBowieにインスパイアされたのかのごとくAceとTrevorはふたりで新しいグループの構想を練り、Mike Sheridan&The NightridersのRoy Woodに接近することにした。The Moveはここから始まった。
当初ドラマーにAceの親友でもあったJohn
Bonhamを誘うが、そのころBonhamはAceの叔父たちのバンドに在籍していた上「Carlのことがあまり好きではなかった」とのことで実現には至らず、結局すでに仕事を持っており誘うことを躊躇していた年上のBev Bevanに白羽の矢を当てた。そしてCarl WayneもThe Vikingsでのイメージをガラリと変えあっさりAceの誘いに乗り新しいバンドに参加したのである。
彼らは揃ってブティックへ出向き、モッド・クローズで身を装い、自らの新しいバンド・イメージを創っていった。


The Moveはこうして、バーミンガムの3つのトップグループの若手メンバーが終結した『スーパー・グループ』としてあっという間にローカル・スター・バンドになった。
女の子からの人気もすでに凄まじいものがあり、AceはThe Moveステージ上で「卒業証書をもらおうと壇上に上がって全ての女の子に叫ばれた、学校の最後の日を思い出した。」という。さすが!

 


■The Move Era 1966-1968■

 The Moveのファースト・ギグは66年1月だといわれている。
その1〜2ヶ月後には当時Moody BluesのマネージャーだったTony Secundaがわざわざロンドンから彼らを品定めにきており、その後マーキーのオーディション―しかもThe Whoの後釜という大きなチャンスを従えてやってきたのも、それからわずかの事だった。

彼らはマーキー・オーディションのため颯爽とロンドンへ出向き、Tonyとそのパートナー、Rickey Farrの前で数曲をプレイした。即、OKサインが出たということは言うまでも無いが、そこでのRickeyのアイディアがAceのその後を道すじを変えることになった。
「君たちは素晴らしいバンドだ。だけど中心に立つ人物が必要だと思うね。それは・・・彼だな。ブロンド・ヘアーの君にそうなってもらうよ。」
RickeyはAceを差して言ったという。

彼らはすでにバーミンガムのトップ・グループを経てきた(地方の)スターだった。全員がロンドン/マーキー・クラブのステージ中央に立ちたがったのは当然のことだろう。

Aceは「The Moveの腐敗はその時に始まった」と言う。
RickeyとTonyはその後、事あるごとにAceを他のメンバーから引き離した。
初期のThe Moveのフォトグラフを思い起こせば出せば頷けるだろう。
'Ace The Face'― ベーシストというポジションにもかかわらず、彼はほとんどの写真で中央に立ち他の誰より目を引いている。
フロント・マン、Carl Wayneとの関係はみるみるうちに悪いものへ変わっていった。

 マーキーでThe Whoの後釜としてセンセーショナルにデビューした MoveはThe Whoに負けず劣らずの過激なショーを売り物にしていた。それらはすべて敏腕マネージャー・Tony Secundaのアイディアだったが、攻撃的なステージは、ヒトラーの写真を張りつけたTVをCarl Wayneが斧で滅多切りにぶち壊し、煙がもくもくと上がりついにはマーキーの前に消防車を待機させるほどであったという。
Tonyの指図により、Carlは決してステージでジョークを発することはなく、メンバー全員一瞬たりとも笑顔など見せはしない。10年後Malcom McLarenが同じ場所で同じように若いバンドを操った、それと同じように、バンドイメージはマネージャーの意図とするままに仕上がっていった。

メディアはまだレコード・デビューすらしていないこの荒くれたバンドをさらにエキサイティングに書き立てた。すべてがTonyの思惑どおり。The Moveの名はロンドン中に知れ渡り、満を持してレーベルとサインを交わすことになった。
66年12月、DERAMからリリースされた1stシングル「Night Of Fear」はTonyの狙いどおりいきなりチャートで2位。
ギャングをイメージしたファッションとルックス、
激しいステージ・アクト、すでにトップ・グループで十分経験してきた彼らのテクニック、デビューシングルでオリジナルソングをヒットさせたロイ・ウッドのソングライティングの才能・・・ 全てが備わったThe Moveはロンドンでも『スーパー・グループ』として扱われたのである。

 67年6月、The MoveはドイツのTV番組「Beat! Beat! Beat!」に出演し「Night Of Fear」「I Can Hear The Grass Grow」「Walk Upon The Water」の3曲ををプレイ、今だその映像が残っている。
その時のAceは(というよりThe Moveの5人全員が)
若く溌剌と自信に満ち溢れていて、その姿はほとんど神々しいほどであった。フロントの4人が横一列に並んで、ボーカルパートを次々にバトンタッチしていく。まさに初期The Moveの醍醐味がここに終結しているといった様子である。
中でも独特なAce Keffordのステージ・アクト。彼を写真でしか見たことがなかった人は皆驚くだろう。華麗ともいえるあのときのAceは、おそらくあの時代もっともク
ールでもっともスマートでもっとも完璧だったに違いない。

 レーベルをREGAL ZONOPHONEに移籍し、The Move
はまだまだ好調に見えた。が、しかしTony Secundaは67年9月リリースのシングル「Flowers In The Rain」にあるオマケを仕掛けることを企んでいた。彼は当時の英ウィルソン首相が秘書といかがわしいポーズを取っているポスト・カードを発注し、まずはメディアに、果ては首相官邸にまで送りつけたのである。
首相はThe Moveを告訴した。がしかし、その時点でメンバーはポストカードの存在すら知らされておらず、事態が深刻になって初めてその事情を彼らは説明された。結局その事件は本当に裁判に発展し、結果シングルのロイヤリティを全て慈善事業に寄付するという条件で決着がついた。
無実の彼らがメディアに駆り出された。Tony Secundaの度を越したプロモーションの結果であった。

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 AceとTrevor BurdonはJimi Hendrix ExperienceやPink Floydのメンバーと親交が深かった。(当時TrevorはNoel Reddingと共に住んでいた説もあるほど。)
中でもJimi Hendrixはずっと年下のAceを可愛がりつつ、深く評価もしており、後にJeff Beck GroupのベーシストとしてBeckにAceを推薦している。
JimiはAceに会うといつもAceの髪をくしゃくしゃにしながら「What's Happenin',Ace?」といって、ふてくされた顔のAceを茶化したそうだ。

「Flowers In The Rain」事件直後に始まったJimi Hendrix Experience、Pink Floyd、The Moveでの長いツアー。これを期にThe MoveからAceの精神が離れ始めたと言ってしまっていいだろう。

あのマーキー・オーディションの午後からグループの中に渦巻いてきた嫉妬と憎悪。トップ・グループそしてポップスターというプレッシャー。
まだ歳若く、決して強い精神とはいえなかったAceの中に、ひどいパラノイアが生じていた。その背後はまさにスウィンギン・ロンドン、フラワー・ムーヴメントの時代

レコード・デビュー直後から徐々にドラッグに手を染めはじめ、67年の末には毎日のアシッド(LSD)に大麻、阿片、コカイン…常にドラッグに頼らずにいられない状態になっていた。顔は蒼白で頬がこけ、体はガイコツのように痩せ細っていた。
ツアーで地方に出ればホテルの外で「Ace!Ace!」とファンが叫び続け、 Tony SecundaはAceひとりだけのフォト・セッションのリクエストを次から次へと持ってくる。その都度巻き起こる口論。
一方ではJimiやSyd(Barrett)との交流があり、ポップイメージを貫くThe Moveとのギャップに戸惑い、ドラッグの深みに日々吸いこまれるまま、私生活ではThe Vikings時代から付き合っていたガールフレンドJenとの間に男の子が生まれていたのである。


 ある時、ロンドンから200マイル先のコヴェントリーでGIGがあった。Aceはひとりでフォト・セッションの仕事を終え、タクシーに飛び乗り急いでリハーサルのためスタジオへと向かった。彼がドアを開けた瞬間、リハーサル中だった4人は背を向け楽器を置きその足でバンに乗りこみ、200マイル先のコヴェントリーへ。GIGをこなし、ロンドンへの帰途がまた200マイル。その間、Aceは無視され続け、誰も彼と口を利くものはいなかった。
これはたくさんのエピソードの内のひとつだろう。ドラッグによる被害妄想では?そう捉えられることも多いかもしれない。(事実、Trevor BurdonはAceが最初にこのエピソードを語った数年後に「Aceは車の中で『誰も俺に話しかけてくれない』と独り言を言っていた。」と弁明するかのように語っている。)
しかし、これはAce自身が語ったエピソードである。ここでは彼の言葉を信じよう。


 68年3月には1stアルバムがリリースされた。1曲目を飾った「Yellowe Rainbow」は長い間Aceのリードヴォーカルだと言われてきたが、近年それが間違いだったとわかった。2ndシングル以降、彼のヴォーカル・パートはぱったりと減っていたのである。Roy Woodはともかく、Trevor Burdonのリードヴォーカルの数を思うと、Aceがいかに歌う事を阻まれていたのかを痛感することだろう。
しかし、"Ace Keffordはヴォーカル・パートが少ないことへの不満を理由にThe Moveを脱退した・・・"と現在も語られているが、実際はそんな単純な経緯では決してなかったのである。

68年の4月。ある日リハーサルの最中、スタジオでAceはベースを壁に向かって激しく叩きつけた。そしてその場を去り、ニ度とThe Moveへ戻ることはなかった。

自宅へ戻ると、彼は自分自身をバリケードで囲んでから、手首を深く切り裂いて壁を血で染めた。すぐにJenに発見され、病院へ
運びこまれて一命はとりとめた。(―その行動にドラッグの影響があったことは否定できない―)
意識が戻ってAceが知らされたのは、同情にかられたCarl Wayneひとりが病室に現れたということだけだった。

これがAceにとって最初の自殺未遂。
このときAceはまだたったの21才であった。
彼がThe Moveであったのはたった2年間。
レコード・デビューから数えると、彼がポップ・スターであった期間は1年半にも満たない。

このたった2年間が、Aceのその後20年間を狂わせる事になるのである。


■1968-1969■

 The Moveを脱退する
少し前に、The Lemon Treeという新人グループに「William Chalker's Time Machine」という曲を提供した。Aceにはソングライティング以外の依頼が及ぶ事はなく、そのシングルはTrevor BurdonとAmen CornerのAndy Fairweather Lowによりプロデュースされ良いポップ・シングルに仕上がった。
この3人がThe Lemon Treeの格好の宣伝材料として使われた事は間違いない。
(― BeatlesやStonesのようなビッグネームをのぞく、60年代のミュージシャンの多くが不当な扱いを受けていた。良いレコードを残したのにもかかわらず、レーベルやマネージャーに食い物にされ、物質的に何も得られなかったかつてのポップ・スターがどれだけいることだろう・・・ )

 The Moveを脱退した直後には、「Flowers In The Rain」などのアレンジを手がけたTony Viscontiとともに、アルバム制作を念頭においたレコーディングが行われた。Ace自身も何曲かを提供し、その中のいくつかではジミー・ペイジがギターを弾いた。
しかし全てのレコーディングが済む前に、Ace自身がギヴ・アップ。結局トラックは迷宮入りになり、その後35年もの間、発掘されることはなかった。

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 The Moveを離れてAceはひとりになった。
Tony Secundaは尚もまだ 'Ace The Face' を売り出そうと考え、ソロ作品のレコーディングを実現させたが、AceにとってはThe Moveから逃げ出すことが先決だった。

 Ace Kefford Standという実質的なソロキャリアがスタートするまでの数ヶ月間、Aceは英スタッフォードシャーの人里離れた小さな村にコテージを借り、ひっそりと身を隠した。
部屋のすみに祭壇をまつり、ほとんど外に出ることはなく、アシッドとともに瞑想にひたる日々を送る。ぎしぎしと壊れゆく精神、ドラッグへの深い依存、現実社会との断絶はひどくなる一方だった。

ベースを叩き潰した午後に犯した自殺未遂からまだほんの数ヶ月しか経っていないこの頃、Aceは再度死の危険にさらされる。手元にあるドラッグを片っ端から全て服用してしまったのである。
それは「死」を意識しての意図的なものではなく、ただ穏やかな気持ちになりたいと願っただけ、その結末であった。
そして今度もJenによってすぐさま病院に担ぎ込まれ、昏睡状態のなか胃洗浄を受け、Aceはしばらくの間を病院で過ごすことになる。

その入院中のことであった。Procol Harumのギタリスト、Dave Ballの弟DenisがAceを探し出し、Proocol Harumのヴォーカリストへの誘いを持ってやってきたのである。
そして実際リハーサルが実現したが、その最初の日に当時Young Bloodsというグループに在籍していたCozy Powellと出会い、CozyがAceに心酔していたこともあって意気投合し、先のDenis Ballらと共にAce Kefford Standを結成することになった。

 StandはAceのコテージを拠点に活動をはじめ、68年9月に最初のGIGを決行。「The Move Member」によるGIGは即SOLD OUTになり、数回のGIGが実現した。しかし、過去にThe Moveは破天荒なGIGのなかでステージに大きな傷跡を残してきた。そのせいで英国内でブッキングを取ることが非常に困難であった。
2ヶ月間に及ぶハンブルグ遠征を経て、Ace Kefford Standは69年4月にAtranticレーベルからYardbirdsのヘヴィ・ヴァージョン「For Yor Love」をリリースした。
が結局、Atranticとの契約はバンドを経済的に良くすることができず、Aceはコテージを維持してゆくことができなくなり自らStandを脱退。家族と共にバーミンガムへ帰らざろう得ない状況になってしまった。
「あのシングルはクソだったけれど、Standは良いバンドだった」とAceは言う。

 69年10月にリリースされたBig Barthaのシングル「T
his World's An Apple」はAtlanticの要求に応えて再度Standのメンバーで録音されたものだったが、Ace曰くそれも「まったくのクソ」に過ぎないそうだ。しかし、Big Birtha名義でも何度かGIGが実現したともいわれている。

 そしてBig Birthaを最後に、ついにAceはロック・ビジネスの世界から遠ざかることになる。




                             .....to be continued.